名だたる監督の日本映画史に残る数多くの名作に出演し、日本映画の黄金期を支え続けた、若尾文子(わかお あやこ)さん。今回は...若尾さんは、出来上がった着物を着たテディベアを持って、壇上でまじまじと見入られると、その後、日本映画産業が衰退した後は、テレビ・舞台に活動の場を移し、以降、数多くの作品に出演されている、若尾文子(わかお あやこ)...海外でも人気の高い、日本を代表する女優、若尾文子(わかお あやこ)さん。 大映映画の看板女優として、おもに1960年代に...若尾さんの白く透き通るような肌に彫られた刺青は、得も言えぬ妖艶さを醸し出し、若尾さんの美を最大限にまで引き出した傑作として、現在も語り継がれています。1951年、第5期ニューフェイスとして「大映」に入社すると、翌年の1952年には、「死の街を脱れて」で女優デビューされた...デビュー2年目にして、出演映画「十代の性典」がヒットしたことから、「性典女優」と酷評されるも、その後は、日本映画を代表す...(デザインの一つ一つにも相当気合を入れて挑んでいたようで)裾が長くて、重ね着したような着物をイメージしていたんだけどこの次、皆さんに披露するときはもっと華やかなものになっていると思います日本女性を代表する著名人として、チャリティオークション用にデザインしたという着物姿のテディベアを披露されています。
同期に若尾文子がいました。 52年、『美女と盗賊』でデビューし、しばらく端役が続きますが、53年に若尾文子と共演した『十代の性典』が大ヒットし、シリーズ化されるとともにふたりは“性典スター”のレッテルを張られ、そのイメージを払拭するのにはお互い苦労したようです。 「若尾文子×西郷輝彦」Web 限定インタビュー 取材日:2012.07.27 日本映画黄金期から現在まで、常に第一線で活躍を続けてきた女優・若尾文子。 京マチ子, 若尾文子, 木暮実千代, 三益愛子, 沢村貞子, 溝口健二 邦画・洋画のDVD・Blu-rayはアマゾンで予約・購入。お急ぎ便ご利用で発売日前日に商品を受け取り可能。通常配送無料(一部除く)。
残酷な天使のナース。病院からやがて飛び立つ。 1966年。増村保造監督。若尾文子、芦田伸介、川津祐介。 日中戦争さなかの昭和14年、さくらは天津の陸軍病院に従軍看護婦として配属された。狂気としかいいようのない状況の中、彼女はモルヒネ中毒の軍医・岡部に心惹かれていく。
増村保造監督作品に登場する若尾さんと田宮さんは、いつもギラギラと情念をぶつけ合っていますが、この作品のお二人はひたすら美しいです。『その夜は忘れない』は、原爆によって、心も身体も深く傷つけられ、人並みの幸せを望むこともできず亡くなった女性たちへの鎮魂と、戦争による惨禍に対する激しい憎しみと怒りが込められた名作です。1943年10月、撮影中に赤紙が届き、出征。復員後の1947年、没落華族を描いて新しい社会の到来を印象付けた『安城家の舞踏会』を撮り、キネマ旬報ベストワンに輝きます。以後、この作品の脚本を書いた新藤兼人さんとのコンビで多くの名作を制作されました。ラストの加宮の悲痛な号泣も胸を掻き毟られるようで、何度観ても目頭が熱くなります。吉村監督は、1929年に松竹蒲田撮影所に助手見習いとして入社以来、島津保次郎監督の下で助監督として活躍し、1932年に軍隊に入隊。一年後に除隊し、1939年に本格的に監督デビューされ、師匠の島津保次郎監督が東宝に移籍した為、島津監督が撮る予定だった岸田國士原作の『暖流』を代わりに撮り、新人離れした演出でキネマ旬報ベスト・テン7位に選ばれます。ファーストシーンからラストまで出ずっぱりの田宮さん。この作品は田宮さんが真の主役かも知れないですね。◎1963年「 第11回ドノスティア=サン・セバスティアン国際映画祭国際カトリック映画事務局賞」その後、加宮は秋子を待合へ誘います。気持ちを抑えきれず、秋子を抱こうとする加宮に秋子は自分は被爆者であり、両乳房にかけて、首から下、お腹のあたりまでケロイドがあることを告白します。着物を脱ぎ胸をはだけて見せるんです。加宮は一瞬驚きますが、僕の気持ちに迷いはないと、秋子を強く抱きしめるのです。加宮は言います。「ぼくの愛情を踏み台にして生きられるだけ生きてくれ」。秋子の真実を知っても、その事実にひるむことなくただひたすらに秋子を愛する加宮を演じる田宮さん。眉間にシワを寄せたクールな男のイメージが強い田宮さんの愛に一途で純粋な青年の役は珍しいと思いますが、なかなかどうして似合っていますよ。戦争をテーマにした作品は日本にもたくさんありますが、戦争そのものを描かなくても、戦争というものの愚かさや悲しみや痛ましさを、こんなにも強く描くことができるんだと教えてくれた作品でした。メロドラマの形を借りて、戦争がもたらす悲劇を静かに訴え続ける名作だと思います。今日もDVDコレクションの中から、ひとり『若尾文子映画祭』開催〜。こんなに優しい目をした田宮二郎さんは珍しいかも。とっても素敵です。翌日、広島駅で待つ加宮の元へ、遅れて秋子はやって来ますが、今は一緒には東京へ行けないと秋子は広島へ残るのです。涙を瞳いっぱいに溜めながら、加宮をプラットフォームで見送る若尾さん演じる秋子の表情は絶品です。これぞ名女優!何度観ても涙が溢れます。若尾さんはロケーションの合間にも原爆病院に赴向かれ、戦後17年経ってもなお後遺症に苦しむ被爆者の方々の現実を肌で感じ、秋子と言う役と向き合われたそうです。就職や結婚に際しても、謂われない差別を受けたそうですし、雑誌の取材などを明るく受けれる人もいれば、秋子のように、秘っそりと自分の胸に仕舞い込んで生きていた人はたくさんいらしたのではないでしょうか。東京の週刊誌の記者・加宮(田宮二郎さん)は、広島の原爆禍の取材をするために広島にやって来ます。実は、編集長から原爆で放射能を浴びた女性が、六本指の赤ちゃんを産んだという噂があり、女性を探し出して、話を聞いて赤ちゃんの写真を撮ってこいと言われているんです。高校生の頃に観た、渡哲也さん、吉永小百合さん主演、蔵原惟繕監督『愛と死の記録(1966年)』という映画も原爆の後遺症に苦しむ青年とその恋人を描いていて、深く胸を打たれた作品でした。ラストは切なすぎて「そんなことってあるの!」って僕は叫んでしまいました。そして秋子は「この石は私よ」と加宮にいいます。秋子は「私は原爆症であまり長くは生きられないの」と加宮に気づいて欲しかったのだと思いますが、秋子に夢中な加宮はそのことに気付きません。それは、若尾文子さんと田宮二郎さんの名演によるところが大きいです。女性映画の名手と呼ばれる吉村監督の作品には、現代の深部を抉る社会派ドラマと言われるようなものも何作かあります。1963年に脳出血、1972年に胃を全摘出するなどして体力の限界を感じられ、三國連太郎さん主演、田中正造の生涯を描いた1974年の『襤褸の旗』を最後に映画の製作から遠ざかり、その後はTVの世界で活躍され、2000年11月27日に急性心不全のため亡くなられました。享年89歳。1956年、経営が行き詰った近代映画協会を離れ(新藤兼人さんの要望で名義だけは残されたそうです。昭和40年代、再び近代映協製作映画の監督を務められました)、大映に入社し、山本富士子さん主演『夜の河』や京マチ子さん主演『夜の蝶』など脚本家・田中澄江さんとコンビを組んで、男女の心理描写に優れた手腕を発揮、大映女性映画の名作を次々と撮られます。田宮二郎さんが存命なら、この作品にどんなお気持ちで取り組まれたのか?とか、色々な撮影の裏話をお聞きしたかったです。1950年には、その新藤兼人さんと映画制作会社「近代映画協会」を設立。作品は主に大映で配給されました。1951年に京マチ子さん主演『偽れる盛装』で毎日映画コンクール監督賞を受賞し、1952年には監督した『源氏物語』がカンヌ国際映画祭に出品され、杉山公平さんが撮影賞を受賞しています。加宮が東京へ帰る前日、秋子が加宮が宿泊するホテルへ訪ねてきます。二人で市内を流れる川の辺りを散歩するのですが、そのシーンがまた良いんですよ〜。若尾さん演じる秋子は、被爆し、身体に傷痕を抱え、それを押し隠して生きている女性なので、とても細っそりとしていて、今にも折れてしまいそうな儚げな女性なんです。戦後17年も経ち、ありきたりの取材では、話題にもならないし、スキャンダラスな記事じゃなきゃ雑誌も売れないのもわかりますが、マスコミってこんなもんなんでしょうかね。戦後17年経って、広島の町は戦争の傷跡も癒えて、立ち直ったように一見、見えます。集団就職で大都会にやって来た社会の荒波と闘う少年少女たちと、それを温かく見守る若い教師の愛情を描いた『一粒の麦(1958年)』、足尾鉱毒事件を告発した政治家・田中正造の半生を描いた作品『襤褸の旗(1974年)』、福島県旧本宮町を舞台に教師と児童の心温まる交流を描いた『こころの山脈(1966年)』などがあり、今回、ご紹介する『その夜は忘れない(1962年)』はこの系列に連なる作品かも知れません。でも、早くに両親とも死に分かれて、一人で必死に生きてきた強さも持ち合わせた女性でもあるのです。田宮さんが俳優として世間に認められた映画『女の勲章』の監督、吉村公三郎さんの作品だし、田宮さんもあまりご自身でも演じてこなかった役柄に共感されているようで、加宮と言う役にとても真摯に取り組んでらしたように感じます。加宮は仕事を忠実に全うしようと、被爆者の方々に会い、話を聞くのですが、会う人皆、色々な雑誌の取材をこれまでも受けていて、取材なれしていて、顔にケロイドがある女性も、手の指がすべて溶けて、固まってしまっている男性も、あっけらかんとしていて、過去ばかり向いてはいられませんと前向きに生きていて、加宮は拍子抜けしてしまいます。それが悪いわけではないのですが…。僕が戦争、原爆というものに気づかされたのは、小学生の頃、親戚のおじさんの家で読んだ、中沢啓治さんによる、自身の原爆の被爆体験を元にした自伝的漫画『はだしのゲン』を読んだ時です。それが逆に秋子という女性が抱える、深い哀しみを観る側に強く印象付けているように感じます。その河岸に秋子は降りてゆき、石を2つ拾い、加宮の両手に握らせます。すると石は加宮の掌のなかで脆く粉々になるんです。川底に沈んだ石は、原爆の強い熱線を浴びたために脆く崩れるようになっていたのです。夜の川面はネオンが映って華やかだけれど、水底は暗く、時が止まっているのです。こんな所にも原爆の傷痕が深く残っていると秋子は言いたかったのです。毎年、8月6日死没者の霊を弔う「灯籠流し」が行われる原爆ドームの前を流れる元安川かなと思うのですが、元安川は、原爆が投下された後、爆風や熱線で傷ついた数多くの被爆された方たちが水を求めてたどりつき、力尽きて亡くなった場所なんです。田宮二郎さん演じる加宮は、そんな秋子に次第に取り憑かれたように惹かれてゆき、気持ちを押さえ切れなくります。秋子は嬉しかったはずです。こんな身体では誰からも愛されない、愛してなどもらえないと半ば諦めて生きてきた私をこんなにも愛してくれる人がいる…ようやく巡り合えた愛を信じたい…けれど無情にも自身の身に迫りつつあるものも秋子は理解していたのです。僕、大好きな監督のお一人です。初めて観た吉村監督の作品は多分『安城家の舞踏会(1947年、松竹)』だったと思います。日本版「桜の園」のような物語を、劇的で外連味のある演出と安定した構成でカッチリと組み立てられていて、感傷に流されることなく、どこか冷めた視線で描かれているところに感心した覚えがあります。偽れる盛装(1951年・大映)、源氏物語(1951年・大映)、夜の河(1956年・大映)、夜の蝶(1957年・大映)、夜の素顔(1958年・大映)女経 第三話 恋を忘れていた女(1960年・大映)、女の坂(1960年・松竹)、婚期(1961年・大映)、女の勲章(1961年・大映)、その夜は忘れない(1962年・大映)、越前竹人形(1963年・大映)などなど。運良く生き残れても、後遺症という形で様々な障害が身体に現れるんですよね。特に遺伝子に及ぼす影響に計り知れないものがあると言われいます。監督は「巧みな心理描写で女性映画を革新した」と言われる吉村公三郎さんです。加宮は秋子を広島から、この境遇から救いたい、助けたいと東京へ一緒に行こうと懇願します。第六回目の作品は…吉村公三郎監督『その夜は忘れない』です。パチパチパチ〜。若尾さんの、この世にもう存在していない幽鬼のような佇まいと美しさが、原爆という悲劇と残酷さを静かに訴えています。『その夜は忘れない』も僕に戦争というものがどれだけ人の尊厳を奪い、全てのものを破壊し、人生を狂わせるのか…突きつけられた作品です。声高に反戦を訴えなくても、平和がいかに大切かが描かれています。映画の中の秋子は、ケロイド部分が痛み、直立も出来ず、疲れやすく立ち眩みを起こしていました。◎1963年 第3回「モスクワ国際映画祭ソ連平和擁護委員会賞」そんな秋子を若尾さんは、作り込むことなく、さらさらと流れるように演じてられるように見えます。取材の夜、加宮は、地元のテレビ局ディレクターで親友の菊田(川崎敬三さん)から誘われ入ったバーで、ママ・秋子(若尾文子さん)に出会います。『その夜は忘れない』は、この石に因んで海外では『広島の石』と改題されて上映されています。原爆を扱った作品として必ず取り上げられます。どの作品も、主演の女優さんたちの美しさが際立つ名作ばかりです。終戦直後は被爆したというだけで、特異な存在である伝染病患者の様に思われていたんだそうです。戦後間もないころは放射能の影響などは何も分かってはいませんしね。何を伝染されるか分からない危険な存在として見る人もたくさんいたんだそうです。
覚える!使える!【生きてる時事用語】 2007.02.23(金) 日経新聞の記事から最新の重要キーワードを1日1語選び、わかりやすく簡潔 にまとめて【生きてる時事用語】として紹介します。 若尾さんは、後に、 そこ(映画界)は本当に厳しい場所。「私、このまま生きてていいのかな」って思わずにはいられない日々でした。撮影所にいるのは職人ばかりで、特に名匠といわれるような監督は個性も強く、職人の極みでした。