日々是好日とは、そんなこだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地です。 たとえば、嵐の日であろうと、何か大切なものを失った日であろうと、ただひたすら、ありのままに生きれば、全てが 好日 【 こうにち 】 なのです。 それが病気や浪人という災難(なやみ)から 解放される妙法だというわけです。 それが日日是好日ということです。 そして、おかしい時には腹の底から笑い、 泣きたい時には手放しで泣く―それが日日好日の生き方だと思います。 日日是好日(にちにちこれこうじつ)は、禅語のひとつ。もともとは、唐末の禅僧雲門文偃の言葉とされ、『雲門広録』巻中を出典とするが 、一般には『碧巌録』第六則に収められている公案として知られる 。日々是好日 、雲門日日是好日、雲門日々是好日 、雲門好日、雲門十五日 と表記されることもある。
日日是好日の意味 「日日是好日」は「毎日が好い(良い)日だな。」という意味です。 ただ、毎日毎日が幸せな好い(良い)日ばかりが続くなんてありえませんよね。 そこにこそ「日日是好日」の本当の意味が隠されているんです。 日々是好日とは、そんなこだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地です。たとえば、嵐の日であろうと、何か大切なものを失った日であろうと、ただひたすら、ありのままに生きれば、全てが好日こうにちなのです。 仏教の言葉に日日是好日(にちにちこれこうにち)という言葉がありますが、どんな日も、幸せのタネをまくことができる すばらしい日(好日)ということです。 この天候の話しのように「日日是好日」の本当の意味はこういうことなんです。その『碧巌録』の禅問答のひとつに「日日是好日」という言葉が登場しているのです。読み方は「にちにちこれこうにち」ですが、日常では「ひびこれこうじつ」と言った方がわかりやすいかもしれません。私のブログを読んでくださったあなたの人生が幸運でいっぱいになるように!実は「日日是好日」とは禅の言葉で、中国唐時代の雲門文偃(ぶんえん)禅師の言葉です。今回は運が良くなる言葉「日日是好日」の意味、読み方そして禅との関係も紹介します。「にちにちこれこうにち」が正しい読みかただと知ったうえで、いろんな読み方を使うのもいいのかもしれませんね。ちょっとせつない歌詞ですが、夢に向かって突き進むんだという前向きな歌詞です。2012年2月にバンド活動をやめてしまった有名バンド「レミオロメン」音楽が好きな人は、藤巻亮太さんの作詞・作曲した歌「日々是好日」をYouTubeやGoogle検索などでチェックしてみて歌詞を確認してみては。どんな天候であれ、好い(良い)日だと思う人と思わない人が必ずいます。どんなに辛いことがあっても、愛を見失っても、天気がどうであれ「日々是好日」と言うちょとせつない内容の歌詞です。雲門文偃(ぶんえん)禅師はとても高名な禅師で、禅宗の一派である雲門宗の開祖でもあります。ただ「にちにちこれこうにち」の読み方は覚えておいてくださいね。禅宗で禅問答を記しているもので『碧巌録』というものがあります。文字だけを見ていると「毎日が好日で幸福だな!」という言葉かと思っちゃいますね。この歌の歌詞を読めば、聞けばこの言葉をあなたの心にしみこませることができるかもしれません。YouTubeやGoogle検索などでチェックしてみてはいかがでしょうか。たった五文字で人生の生き方を表現した雲門禅師はすごい禅師だったんですね。そのレミオロメンのボーカルをしていた藤巻亮太さんの作詞・作曲した歌「日々是好日」運がよくなる言葉のひとつである「日日是好日」という言葉を理解するには、とってもわかりやすい内容の歌詞です。ただ日常会話では「ひびこれこうじつ」と読んだほうが、相手に伝わりやすいかもしれません。ぜひ「日日是好日」という言葉の意味を理解し自分自身の言葉になさってください。禅問答は難しい問答のようですが、人生に役立つ問答もたくさんあります。そして、何があっても「日日是好日」と自分に言い聞かせがんばりましょう。また「ひびこれこうにち」と読んだり「ひびこれよきひ」と読んだりもします。ただ、毎日毎日が幸せな好い(良い)日ばかりが続くなんてありえませんよね。でも晴れの日ばかりで雨が降らないと、農家の方は困りますし、水道も断水になってしまいます。今後十五日以後のことを聞いていながら雲門禅師の答えは「日日是好日」です。 日日是好日の意味は? 雲門文偃は日日是好日を、「毎日が良い日だ」いう意味で使っています。この「良い日」には 「毎日が素敵で素晴らしい日である」 という意味があります。 そこから転じて、 良い日になるように、毎日努力することが大切だ。 読んでくださってありがとう。もしもこの記事に何かしら感じることがあったら、それをご自分でさらに突きつめてみてください。きっと新しい世界が開けるはずです。いただいたサポートはありがたく頂戴します。再び言うけれど、わたしは禅の達者でもなんでもない。かじったことすらない。しかし、もし禅の目的が悟りに至ることで、その悟りというのがとらわれない境地を指すのであれば、「とらわれないようにしよう」「とらわれないようにするにはどうすればいいか」という意識のありようは、ことごとく悟りから外れているということは確実に言える。なぜなら、それは新たなとらわれであるからだ。悟りたいのであれば、「どうしてもとらわれてしまう」という現実を、見ないようにするとか、克服するというのではなくて、見据え続けることが大切だと思うのだが、まあ、それは、それ。禅の言葉に、「日々是好日」というものがある。読み方だが、「にちにちこれこうにち」が正しい。が、まあ、日常会話の中では、「ひびこれこうじつ」でもいいらしい。この言葉はどういう意味か。このノートでは、この意味について述べる。以下に、二つの解釈をご紹介し、それに対するわたしの考えを述べて、最後に、わたしの解釈を示しますが、そのわたしの解釈部分は有料にしますので、ご興味のある方はご購入ください。では、この禅語はどうとらえればいいのか。以下はわたしの解釈です。ご興味がある方はどうぞ。ただし、先んじてご注意を申し上げておきますが、「分かる」というのは、「自分が分かる」ということであって、いくら、わたしが、「分かりますよね?」と言ったって、分からない人は分からないわけです。わたしの力が及ぶ限りにおいて、かみ砕いてお話をしていますが、もしも分からなくても、それはご自分の責任だと考えてください。「そんな言い方、無責任じゃないか!」と言われても、こればっかりはしょうがない。「届け!」とは思うけれど、「分かれ!」とは命令できない。もしかしたら、上記の二つの解釈も、分からない人向けの一種の便法なのかもしれません。真実に至るための下敷きとしての解釈という意図があるのであれば面白いと思いますが、まあ、それもそれ。ともかくも、「日々是好日」という言葉を、ご自分の人生に活かしたいと思う方は、以下をご覧ください。