澤村伊智「ぼぎわんが、来る」(角川ホラー文庫)【公開】2018年(日本映画)【企画・プロデュース】川村元気【原作】澤村伊智「ぼぎわんが、来る」(角川ホラー文庫)【脚本・監督】中島哲也【キャスト】岡田准一、黒木華、小松菜奈、松たか子、妻夫木聡、青木崇高、柴田理恵、太賀、志田愛珠、蜷川みほ、伊集院光、石田えり、西川晃啓、松本康太、小澤慎一朗【作品概要】代表作『嫌われ松子の一生』『告白』『渇 … スポンサーリンク『来る』のラストは、多数の死者が出るものの一応ハッピーエンド(捉え方は人によります)で終わります。 映画終盤では、田原の故郷に伝わる化け物「あれ」の奇襲を何度か受けた末に、田原(妻夫木聡)の子どもと、田原が頼った霊媒師「真琴(小松菜奈)」が行方不明になります。行方不明とはなりますが、最終的に真琴の姉の琴子(松たか子)と、野崎(岡田准一)、その他大勢の助けを得て、田原の子どもである知紗と真琴は戻ってくることができました。 田原とその妻である香 … https://www.club-typhoon.com/archives/2018/12/08/kuru-last.html
!でもなく。 来る、です。 ホラーというと夏が定番ですが、今作は冬に公開するということで、いったい東宝さんはどんなマーケティングをとって冬に公開することに踏み切ったのか。 川村元気とは何者なのでしょうか?彼は2016年、空前絶後の大ヒットを飛ばした『君の名は。』を企画・プロデュースしたことでその名を広く知られることになりました。しかも映画界のみならず各方面で大活躍しており、数多の顔を持つ男でもあります。その人物像に迫りたいと思います。『渇き。』や『下妻物語』など、斬新なアイデアと予想の出来ない怒涛の展開で観客を魅了してやまない映画監督・中島哲也がの次回作は、ホラー映画!?主演に岡田准一を迎え、豪華な俳優陣にも注目が集まる今作の気になるあらすじ・キャスト、公開日を徹底紹介します!「民俗学者」と名乗る津田大吾を演じる男は、青木崇高です。NHK連続テレビ小説『ちりとてちん』に出演した事をきっかけに数々のドラマや映画、舞台作品で活躍するようになります。彼のキャラクターが物語にどのような影響を与えるのか……楽しみです。そんな気になる映画『来る』の公開日。当初は、2019年公開とされていましたが、その後、2018年12月7日に早まりました。ciatrでは、新たな情報が発表され次第記事を更新していきます!映画『来る』のメガホンを握るのは、予測のできない展開と、圧倒的な映像美で観客を魅了する中島哲也です。松たか子主演作品『告白』では日本アカデミー賞最優秀監督賞と最優秀脚本賞を受賞し、その手腕が高く評価されました。映画『来る』は、原作『ぼぎわんが、来る』を読んだ中島監督が映画化のオファーを快諾したことで実現したそうで、本作の脚本も彼自身が手がけています。さらに、共同脚本に『桐島、部活やめるってよ』の岩井秀人を迎え、新たな中島作品の幕開けとなりそうです。中島監督の手がけた作品は、スクリーンに様々なものが舞う(『下妻物語』ではキャベツが、『告白』では粉塵が、『渇き。』では血しぶきが)ことが特徴でもあります。『来る』では一体どんなものが舞うのか楽しみですね!オカルト雑誌に寄稿するライター・野崎昆を演じるのは、『永遠の0』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞し国民的俳優の仲間入りをした、人気ジャニーズアイドルグループ「V6」の岡田准一。また、岡田自身がホラー映画に出演することも初の試みとなり、「脚本を読むことも怖い」とコメントしています。今までは、登山家や戦士など体を張った演技も多かった岡田。今作では、どんな演技を見せてくれるのか、とても楽しみですね!「ぼぎわん」の存在によって恐怖に陥れられるイクメンパパ・田原秀樹を演じるのは、『悪人』で第34回日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞を受賞した、こちらも国民的俳優の妻夫木聡です。『パコと魔法の絵本』、『渇き』に続き、中島哲也映画作品に妻夫木が出演するのは3度目。中島組の一員として、「中島監督がみせるホラーとはどういうものか、僕自身とてもワクワクした気持ちでいます」とコメントしました。秀樹の後輩社員ある高梨重明を演じるのは、太賀。近年では、ドラマ『今日から俺は! みなさんこんにちは。ナガと申します。今回はですね映画『来る』の原作でもある小説『ぼぎわんが、来る』について書いていこうと思います。本記事は一部作品のネタバレになるような内容を含む感想・考察記事になっています。本作を未読の方はお気をつけください。ぜひぜひこちらも読んでみてください。良かったら最後までお付き合いください。 12月7日 来る く~るぅ~きっとくるぅ~♪でもなく、 ザキヤマが来るぅ~! (c)2018「来る」製作委員会 はじめに みなさんこんにちは。ナガと申します。 今回はですね映画『来る』の原作でもある小説『ぼぎわんが、来る』について書いていこうと思います。 本記事は一部作品のネタバレになるような内容を含む感想・考察記事になっています。 小学生の少年少女。山の中で少女は「あんたもあれによばれる」と告げ、その後消息を絶ちました。少年の名前は田原秀樹。現在は東京でサラリーマンをしている秀樹(妻夫木聡)は法事のため、新妻の香奈(黒木華)と実家に帰ってきます。そこで幼い日、病床の祖父と二人きりの家に恐ろしい何かがやって来たことを思い出しますが、行方不明になった少女の名前など細かいことはよく覚えていませんでした。一方、妻の香奈は、自堕落な母に虐げられながら育ち、スーパーで働いていたところを秀樹 … 映画「来る」のネタバレ感想. そのため映画、原作のネタバレ要素に一部言及します。作品を未鑑賞の方はお気をつけください。もちろん自分の娘と向き合い、仕事と両立させながら生きていくという行為は、とんでもない「苦労」と「痛み」を伴う生き方です。一方で野崎は、そんな「痛み」と向き合う彼女のことを理解しきれていません。ただ映画『来る』の香奈はとんでもない「悪女」になってしまっていて、衝撃的でした。そんな力強いメッセージを中島監督はこの映画に託していたように感じられました。原作で秀樹は会社の女性に愛人を作っていたという設定があるので、おそらくはその類ではないかと推察しております。そんな知紗の様子を表していたのが、保育園での「靴投げ事件」であることは言うまでもないでしょう。この「痛み」というワードは原作小説ではそれほどプッシュされているものではありません。野崎は真琴が知紗の面倒を見ていることに対して否定的な姿勢を表明していました。知紗という少女は、虐待を受けていた、ネグレクトを受けていた(とは言わないまでも母親からきつく当たられていた)ということになるわけです。そういう点で野崎の過去の改変もまた「痛み」というテーマに寄与していることが指摘できます。さらに言うと「ぼぎわん」と対決する主体は琴子ではなく、むしろ野崎であったように思えました。"目を背けないこと、向き合い続けること、それ即ち「生きること」なのだと。"彼女は原作では秀樹亡き後、必死に知紗のために「良い母親」になろうと努力し、ぼぎわんがやって来るまで、しばし良い親子関係を築いていました。それに伴って「ぼぎわん」の正体についての描写や、それに関わっていた祖母の描写は大幅にカットされたという運びになっているんだと解釈しています。特に映画版を見た方が疑問に思うのは、「オムライスの夢」の解釈でしょう。おそらく原作から映画脚本にコンバートされるに当たって一番キャラクターとしての設定が変更されているのが、黒木華さんが演じた香奈だと思われます。では、「幸せな家族」の象徴であるオムライスの夢を見ているということは映画『来る』はハッピーエンドなんだと解釈したくなるかもしれませんが、個人的にはそうは思いませんでした。きっと皆さんにも自分の弱さや醜い部分が鏡のように見えていることと思います。大切なのは、そこから目を背けないことです。また映画版では原作に比べてあまり琴子(松たか子)が霊媒師としての実力を見せつけないどころか、むしろ「弱さ」を見せるというのも驚きです。ただこの改変には間違いなく中島監督の意図があると踏んでいます。個人的に非常に心に残っているのが、やはり逢坂セツ子が秀樹(妻夫木聡演じる)にナイフを突き立てて、「痛みを感じないということは死んでいるということ」と告げるシーンです。では、ここからは先ほどまで指摘してきた5つのポイントに則りながら、中島監督がこの映画『来る』で何を描こうとしたのかについて考えてみようと思います。そう考えると、「オムライスの夢」というモチーフは、秀樹や香奈がいた頃の、それこそブログに書かれていたような「幸せな家族」の時間の表象です。つまり、母親の香奈が娘にネグレクト的な行動を取り、さらには不倫行為に耽っている間に、知紗は自らを「痛み」のない世界へと逃避させることで自己防衛をしていたことになります。原作では、秀樹の亡き後に必死に知紗と向き合い、彼女の「母親」になろうとした彼女が、映画版では娘から目を背け不倫行為に及ぶようになります。彼のキャラクターも原作から大きく設定が改変された人物の1人だと思います。とは言ってもとある1点が大きく変わっているというだけなんですが、作品の主題的には意義のある変更だと感じました。それでも「痛み」を感じるという性質が、人間に他者と共感的な関係性を築く可能性を広げ、そこから発展して家族という共同体を生み出すきっかけを与えていることは言うまでもありません。そうなんですよ。香奈に関しては原作と真逆のキャラクター設定に改変されていると言っても過言ではありません。これに関しては映画版ではすっぽりと抜け落ちていて、逆に香奈の両親の描写が追加されたというコンバートが成されています。当ブログでは、映画『来る』に関連した記事を他にも書いております。ただ映画版における「ぼぎわん」の存在意義は原作とは解釈的に異なっている部分があって、それが非常に興味深いんですよ。着地の仕方こそ原作と異なりますが、着地点は原作と同じだと個人的には感じましたよ。まずは先ほど挙げた黒木華演じる香奈についての改変について考察していきます。柴田理恵が演じた逢坂セツ子が「痛みを感じないということは死んでいるということ」と発言していましたが、香奈はまさしくそんな状態に陥ってしまいました。基本設定はそのままですが、野崎に関してはその過去について大きな改変点が生じています。ぼぎわんはそんな「痛み」を失った家族の下にやってきます。そして最後にはその生命をも奪っていきます。基本的に作品の幕切れのさせ方は非常に重要な点ですので、そこを改変したということは中島監督なりの強い意図があってのことだと思います。そうなんですよ。映画版では、幼少期の秀樹が「ぼぎわん」を知るきっかけになったのは、とりわけ幼馴染の少女によるものでしたが、原作では祖父母が原因ということになっています。子供が大好きながら、自らは子供を望めない身体であり、それでも知紗との関わりを持とうとする真琴は何とかその「痛み」と向き合おうとしています。また「ぼぎわん」を呼び寄せる呪いをかけてしまった張本人が祖母であり、そもそもは自分の夫を憎んでのことだったとされています。これって子供が虐待によって負った心の傷の深さを描いているように思いました。虐待というものが子供に与える計り知れない影響を示唆しつつも、これから少しずつ彼女の心の傷が癒されていくのではないかという優しい未来をもこのラストは示唆しています。結局、親と子が一度互いに「痛み」から逃げてしまう、無感覚な状況になってしまうと元には戻れないのかもしれません。それは死んだ状態から生き返ることができないのと同様です。原作ではハッピーエンドともバッドエンドとも取れる意味深な幕切れをしていたということもあり、多くの解釈を生みました。さて、ここからは5つのポイントに絞って原作『ぼぎわんが、来る』と映画『来る』の違いを解説していこうと思います。原作だと秀樹のマンションではなくて、真琴のマンションだと思いますよ!!無精子症のために子供を望めないという設定だった原作に対して、映画版では、人を愛することができず、妻に中絶手術を強いたという過去になっています。実はこの改変はすごく重要なポイントになってくるので、注目しておく必要があると思います。ここはかなり重要な改変になっているので、深く検討してみる必要性アリでしょう。原作では、無精子症で子供を望めないために同じく子宮摘出のために子供を望めない真琴と恋愛関係になったのではないかという仄めかされます。このように映画と原作ではスポットが当たっている部分が異なっているのも印象的です。その決意がぼぎわんから2人を取り戻すきっかけになっている点は原作にはない要素です。原作では完全に淘汰したわけではないにせよ、一応琴子がぼぎわんを除霊しています。父親が命を落とし、母親の香奈からネグレクト(まがいの行為)を受ける彼女は心に傷を負い、「痛み」を失ってぼぎわんに囚われました。