モノ書きになることを目指して40年・・・・いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。こう言われて、その想いに殉じるならば、待つという以外の答えは存在しない。ここで立場を逆にして考える。自分が不治の病で余命幾ばくもない立場だったら恋人にどんな言葉で告げるのだろうかと。相手を悲しませないためにはどんな言葉が必要なのだろうか。このまま死んでしまう自分は、相手の人生にどう関われるのか。いくら待ってもらっても、自分はこの世にいなくなる。相手の「待つ」という行為はすべて徒労となる。そんな時に自分は、非現実な「逢いに来ますから」という約束を、果たされないことを前提に交わすのではなかろうか。よりよく相手に生きてもらうために。輪郭の柔らかな瓜実顔で、真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよくさしているその美しい女 は、自ら死にますと宣言する。しかし、きっと逢いに来ますとも言う。しかしその逢いに来るというの は、気が遠くなりそうな百年先という、ほとんど永遠にも近い未来の約束なのだ。「百年はもうきていたんだな。」本当はそれは十年だったのかも知れないし、千年だったのかも知 れない。いくら待っていても死んだものは現実によみがえることはない。「きっと逢いに来ます」という嘘は、信じることではじめて本物になった。女の真っ白な頬や瓜実顔が百合の花に生まれ変わったというのはやはり非現実な「夢」である。夢を見たことのない人はない。夢についてなら誰だって語ることができる。どんなに非現実なでき ごとであっても夢なら起こり得る。だから人は夢の中に自分の理想を描き、現実世界で望んでもか なえられないものを仮託する。「夢十夜」の中で漱石は何を見て、何を願ったのか。現実と非現実の 世界を行き来するその観念性の世界は何を伝えようとして書かれたものだろうか。十夜のうちで、 もっとも不思議な余韻を残すのは第一夜である。そこには「百年待っていてください」と言い残して死ぬ女が出てくる。人を待つのはいいことだ。少なくとも待つ相手がいないよりは。そして「待つ」という行為は、時間 に追われて生活する私たちの忘れてしまった価値でもある。あなたには待っている相手がいるか。 その相手を待つためにならどんな長い時間も厭わないという恋人がいるだろうか。もしもそういう相 手を所有していればまぎれもなく幸福だ。しかし、自分が待ち続ける相手が死者である以上、その「待つ」という行為は本質的に徒労なの だ。だからどこかで線を引かないといけない。信じるという観念の世界でしかその行為の意味はな い。「真っ白な百合が鼻の先で骨にこたえるほど匂った。そこへ遥かの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に 接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いて いた。」もちろん、夢の中という観念の世界では、どんな非現実も可能だ。小説という虚構の世界が、さら に夢というフィルターを通じて語られる時、それを現実の自己に重ね合わせることの方がナンセン スだ。しかし、私は考えてしまう。自分はどれだけ待てるのかと。永遠という時間を「待っていてくだ さい」と言うことは、自分への想いに殉じてずっと生きてくれという願いに他ならない。「このまま誰も愛さないで私だけを想っていてください」というのは、究極にエゴイステックな愛の姿でもある。そこで自分は考える。自分ならどこまで恋人を待てるだろうか。どうしても海外で勉強したいから 十年待っていて欲しいと言われて、果たしてその十年を待てるだろうかと。死んだ恋人は白い百合の花に輪廻転生し、こうして百年目の再会が叶う。百合の花が本当に恋人の輪廻転生の姿であるかどうかはこの際問題ではない。観念の世界の中では自分がどう受けとめ、信じるかだけがすべてである。そして「愛」とは、この世で最も観念的なものではなかったか。白い百合の花は自分が信じる限りにおいて、恋人の生まれ変わりである。「肉体」は滅んでも「意志」は百年生きることだってあるかも知れない。 女を埋める穴を掘る道具が大きな真珠貝であったり、墓石が天から落ちてきた星の破片であったり、夢の中の物語には美しい小道具が散りばめられている。しかし、最も美しいのは「待つ」という 無償の行為であり、待っている時間である。 石「夢十夜」 による)、とだけ書かれてる。実際は、短い「十夜」の内. 夢を見たことのない人はない。夢についてなら誰だって語ることができる。どんなに非現実なでき ごとであっても夢なら起こり得る。だから人は夢の中に自分の理想を描き、現実世界で望んでもか なえられないものを仮託する。「夢十夜」の中で漱石は何を見て、何を願ったのか。 作了這樣的夢。 雙手抱著胸靠坐在枕邊時,仰躺的女人靜靜地說她將死去。女人的長髮散落在枕頭上,線條柔和的瓜子臉橫躺在中間。雪白的臉頰底層蘊透著溫暖的血色,嘴唇當然也是鮮紅的,看起來不像是要 … 1. の 第六夜 で、ほぼ全文だが、そういった説明は無い。ちなみに『夢. éªAa®ÉlçêéB¬ÌÜÅÉÍåèAåÁ½ãÅa®ÌñðÆé©AåêÈ¢êÍ©nµæ¤Æl¦éªAåèàJ¯¸©nÌ@àíµ½ÜÜÀªéByælézu©ªvÍqÅA¢éÌê³ñð©Ä¢éBê³ñÍè@¢ðÖɵÄâéAÆJðªAè@¢Í®«o³È¢B»Ì¤¿ê³ñÍÍÌÖ´Ô´ÔüÁĵÜÁÄA»ê«èãªÁÄÈ¢B 引用しようと読んでいて気がついたのですが、このシーンで無駄な文章はひとつもありません。すべての文が意味のある文であり、どれを抜かしても、この再会の場面はまったくその美しさを失ってしまいます。そもそも「女が白百合となって男の前に現われた」などとは書かれていないのに、私を含めたぶん読んだ人ほぼ全員がそう感じるような文章になっているのがすごい。夏目漱石の天才が端的に示されていると思いました。© 2020 ぶっくらぼ All rights reserved.<隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。>夏目漱石の作品は『こころ』『坊っちゃん』『吾輩は猫である』『夢十夜』を読みましたが、私がいちばん「小説らしい」と思うのは『夢十夜』です。特に「第一夜」が私は日本語で書かれた小説で最もすばらしい小説だと思います。どうして夏目漱石はノーベル文学賞を獲れなかったのかと私は首を傾げるのですが、私の好きな太宰治や星新一、村上春樹なども受賞していませんから、世界の好みと私の好みが違うのだろうと思っています(村上春樹は数年後にもらえるかもしれませんが)。誰にでもできることなのにどの木からも仁王を彫ることができない。「自分」は運慶の仕事っぷりを見て、「誰にでもできることではないか」と思いはじめ、家に帰って薪を掘ります。でも、いくら彫っても運慶のように見事な仁王像は出来上がりません。「自分」はその理由を「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」からと悟ります。<運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。>日本人に「日本人作家でいちばん好きな小説家は誰ですか?」と訊ねたら、たぶん「夏目漱石」と答える人が最多でしょう。かつてお札であった人は強い。この文章を読むやいなや、私たちは明治時代の護国寺の前にタイムスリップしてしまいます。そして「自分」や「若い男」、他の見物人らと共に、運慶の無造作な彫刻を眺めることになるのです。だからこの小説は、時間が経てば経つほど、その深みが増していく、まるでワインのような作品だと思いました。記事に対する感想・要望等ありましたら、コメント欄かTwitterまで。正直に申し上げると、読書感想文を書いているいまも、若干胸の奥に何かが残っているような気がします。書き終えて今夜夢の世界に入ったとき、私も誰かと百年後に再会する夢が見られるかもしれません。運慶と「自分」の最大の違いは「時代」です。鎌倉時代と明治時代の時間差です。その時間差こそが、「自分」が仁王を彫れなかった最大の理由に繋がると私は考えます。<すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。>百合が芽を出し生長し、「自分」の目の前でふっくらと花を開く。そこから香ったのは、骨までしみ入るほどの、感動でした。「自分」はごく自然に接吻し、空を見上げ、そこに金星が輝いているのを認める。「百年はもう来ていたんだな。」と彼は初めて約束の時間が来たことを知りますが、このひとり言は「第一夜」で「自分」がカッコ付きで発声した初めてのことばでした。とても印象的な締めくくりです。余韻を残す終わり方とはこういうものかと思いました。私は最初、ジョークとか、笑いを狙った小説かと思いました。じっさい夏目漱石は『吾輩は猫である』など、笑える楽しい小説を書いています。だから「第六夜」もその種類の作品かなと考えたのです。しかし最後まで読んでみるとそうではないことがわかりました。これは、たぶん悲しい物語です。さて、私が『夢十夜』の「第一夜」の好きなところは、百合の花に接吻する、最後の場面です。少し長いですが引用します。矛盾した命題のように思えますが、「木」を「明治の木」に書き換えると理解が進みます。誰にでもできることなのに明治の木からは仁王を彫ることができない。(なんだなんだ)と考える間もなく、中国の、それも大昔の時代へ中島敦は読者を連れて行きます。このような語り口を、『夢十夜』の「第六夜」の書き出しを見て私は思い出しました。仁王像を作ることのできる人物も、木も、明治の時代には失われてしまった。『夢十夜』の「第六夜」はそんな「自分」の悲しみの物語です。私たちは「自分」が明治時代で鎌倉時代との時間差を感じたように、「第六夜」の書き出しによって、平成時代と明治時代の時間差を感じます。二重の意味で時間差を感じることになるのです。さて『夢十夜』の「第六夜」は、夢の話らしく、とても奇妙な状況が起きています。鎌倉時代の人であるはずの運慶が、明治時代に現れて木を彫刻しています。しかも、無言で。 今回から、漱石先生の『夢十夜』の解説に入ります。 ①こんな夢を見た。 この作品は、第一夜から第十夜までの、短編10品のオムニバスになっています。基本この書き出しで揃えています。 十夜』は、無料の電子図書館「青空文庫」で全文公開中。 問題文の第六夜のあらすじは次の通り。 う。その場合、「夢十夜」の基本的なモチーフを生と死の問題に置き、その背後「夢十夜」解明の一つの区切りとして、このような側面から追究してみたいと思 それでは、先ず、「夢十夜」を生と死という観占司令らとらえると、どつなるの の 第六夜 で、ほぼ全文だが、そういった説明は無い。ちなみに『夢. 【朗読】夢十夜 ‐ 夏目漱石 <河村シゲル Bun-Gei 名作朗読選> - Duration: 1:11:11. 夢十夜・第一夜を読む。 2. 石「夢十夜」 による)、とだけ書かれてる。実際は、短い「十夜」の内.