ビジネス文書の書き方で悩んでいます。書面、メールでお客様に文書を書く場合、敬称をひらがなの「さま」と「様」と二通り書かれる方がいますが、意味や用法が違うのでしょうか?私はビジネス文書なので、「様」が正しいと思うのですが、 公用文を作るときなど、漢字を使うべきか、ひらがなを使うべきか迷うことがありますよね。 例えばよくあるのが「など」と「等」どちらを使うべきなのかといった場合です。 詳しくは後述しますが、 「等」は「など」とは読みませんので、「など」と読ませたいときにはひらがなで書きます また、「出来(でき)る」とか「-の様(よう)に」などの語は、常用漢字表の漢字あるいは音訓であってもそれを使う由来・意味は現在さほど考慮されていません。このように習慣だけで漢字書きにしている語はひらがな書きが一般的です。 ひらがなにするボタン. ビジネスメールのプロに質問! ビジネスメールで使用する場合、「頂きます」「有り難う」などは、ひらがなと漢字、どちらが良いのでしょうか。 茨木ち江講師からの回答 中国語を学ぶようになってから、以前よりも漢字にとても興味が湧くようになりましたが、日ごろ使っている「ひらがな」の由来が漢字であることを思い出し、それぞれの「ひらがな」がどの漢字に由来しているのかを知りたくなりました。小学校時代の遠い記憶には なお、カタカナの”ワ”もひらがなと同様に、漢字の”和”から生まれたという説がありますが、”ワ”になった説については諸説があります。寒い日々が続いていると、温かい春が待ち遠しく思えます。4月にもなれば桜の花も咲き、温かくて気持ちのいい日も出てくることを考えると、早...漢字の”加”は、左辺の「力」(二画)と右辺の「口」(三画)で構成されていますが、ひらがなの”か”(三画)の最初の2画は「力」が変化し、最後の画は「ロ」が点「丶」に簡略化されてできました。但し、日本語としては馴染みがありませんが、「計」は呉音としては「け」とも読み、それに由来するという説もあるようです。”部”の形状からすると、どうして”へ”になるのか疑問が生じると思いますが、実はひらがなの”へ”は、漢字”部”の中のおおざと「阝」の部分から出来ています。なお、カタカナの”セ”もひらがなと同様に、漢字の”世”から生まれましたが、これは、ひらがなの”せ”の一画目と二画目を続けて筆記した字体が変化してカタカナの”セ”になったと言われています。また、ひらがなの”せ”から変化したのではなく、”世”の行書体から変化したという説もあります。この書き方の場合、”曽”の字の最初の2画の名残が残っていると言えます。ひとつの説として、上記の「りょう」や「ろう」は古い仮名遣いではそれぞれ「りゃう」「らう」と読みますが、このうち「らう」の一音目の「ら」がひらかなの”ら”の音のもとになったとするものがあります。また、”留”の異体字に”畄”という漢字がありますが、これもそれと関係しているようです。これをイメージしながら、”太”を崩して書くと”た”になるのがよく分かると思います。”毛”は、毛筆(もうひつ)や羽毛(うもう)など「もう」と読みますが、「も」の一音だけを用いてかたかなの”も”の読み方になっています。また、もう一つの説である鬪ですが、これは闘の旧字に相当し、鬪の新字体として闘が生まれました。諸説が多い理由は、州も川も漢字として”つ”の音を持たず、他のひらがなの由来と比較しても珍しいケースだからです。”遠”も”を”も、最後は筆を左から右に横に走らせる点に字源の面影が残っています。漢字の”无”は”無”の古文異体字で、古くは”無”と同じとして通用する漢字でした。ひらがなの”し”の中には、”し”の上部に点を打った字体で筆記する場合がありますが、これは”之”の初画である「丶」(てん)の名残です。日頃、何気なく利用しているヘアケア用品ですが、改めて考えてみると、リンス・コンディショナー・トリートメントの違いがよく分からないことに気付き...つまり、”保”は、「亻」「口」「木」から構成されますが、「亻」が、”ほ”の「|」(たてぼう)になり、「口」が”ほ”の上の横棒になり、「木」が”ほ”の残りの部位になりました。”波”は、波及(はきゅう)、波止場(はとば)、波浪(はろう)などのように「は」と読みますが、これがそのままひらがなの”は”の音になりました。しかし、これには少し不自然なところがあります。実は、奈良時代には、”祢”のしめすへん「ネ」の代わりに、のぎへんである「禾」がよく使われていて、”祢”ではなく”称”という字が多く残っています。”左”は五画で、「一」+「ノ」+「工」の順番で書きますが、草書体では最初の二画「ナ」に「エ」を崩した「乙」のような形状になります。同じような流れで似たような形状のひらがなになったのが、”ね”と”れ”です。(上述を参照)”呂”にある二つの「口」を続けて崩すように書くことで”ろ”となりましたが、当時の”呂”は「口」と「口」の間にある「ノ」がなくて「吕」という字体で、ここから変化したと言われています。これは、昔の中国では皇帝の名前をそのまま書いてはいけない慣習がありましたので、唐(7世紀)の第2代皇帝の「李世民」(りせいみん)の世の字を、画数を減らした「せ」のような書き方にしていた史実があるからです。つまり、幾の中の2つの「幺」を書き、横棒「一」を書き、縦の「\」の形状の部位を書き、最後に左下の「人」の部位の筆順を崩して書くことで、ひらがな”き”になりました。「己」は自己(じこ)のように「こ」と読みますから、これがそのままひらがなの”こ”の発音になっています。なお、カタカナの”ツ”もひらがなと同様に、漢字の”州”又は”川”から生まれましたが、これについても諸説があります。なお、カタカナの”ク”についてもひらがなと同様に、漢字の”久”から生まれましたが、この場合は”久”の最初の2画からできたと言われています。この違いは、ひらがなの”り”は、左右を続けて書くような字体(ひだりのハネが、右につながる形状)をしていますが、カタカナの”リ”は、左右の縦棒がそれぞれ独立した字体になっている点に表れています。この「く」の読み方がそのままひらがなの”く”の音になりました。この読み方は、久留米(くるめ)や久喜(くき)など固有名詞でも使われています。”不”は、不可(ふか)、不能(ふのう)などのように「ふ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ふ”の音になりました。”仁”の「亻」(にんべん)を続けて書くと「|」のようになりますから、”仁”が”に”に変化したことは分かりやすいと思います。そして、この本来の”武”の字体からは大きく異なる草書体を、上図のように簡略化して書くことで”む”になりました。中国語を学ぶようになってから、以前よりも漢字にとても興味が湧くようになりましたが、日ごろ使っている「ひらがな」の由来が漢字であることを思い出し、それぞれの「ひらがな」がどの漢字に由来しているのかを知りたくなりました。なお、カタカナの”ヒ”もひらがなと同様に、漢字の”比から生まれましたが、この場合は”比”の右側(最後の2画)からできました。なお、カタカナの”マ”ができた由来のひとつに、ひらがなと同様の漢字”末”から生まれたという説がありますが、この場合は”末”の最初の2画から変化したと言われています。最初の横画を書いた後、筆を左方向に折り返す筆記の時に”筆が離れてこ”の上部になり、続けて筆記する「乚」の部位が”こ”の下部になりました。”武”の書き順は本来、上部の横棒「ニ」を先に書いた後、「止」を書き、「\」の形状の部位を書いて最後に右上の「丶」(てん)を打ちます。この「をん」の「を」の一音だけを用いてひらがなの”を”となりました。このように”州”がひらがな”つ”の由来の漢字だとする説の場合も、”つ”の音は”州”の古音からきていると言われています。”加”は読みとしても加算(かさん)など、「か」の音を持っていますので、そのままひらがなの「か」の音になっています。以下、なぜその漢字からそのひらがなが生まれたのか、その詳細が分かるように、筆順を中心にひらがな一文字ずつ説明します。いずれにしても、ひらがなが漢字から生まれたことを理解するには、元の漢字の筆順を追っていくと理解しやすくなります。”不”の字体と”ふ”の字体は、形状が似ているため”不”を続けて書くことで”ふ”ができたことは分かりやすいと思います。字形の変化はこのように”州”でも”川”でも比較的分かりやすいのですが、問題は「つ」という音です。草書体では、”武”の字体をイメージしにくいですが、実際にそのように筆記されていたのです。”利”を続け書きして崩して行くことで、禾(のぎへん)が”り”の左側の縦棒に、漢字の”利”の「リ」の部位は、ひらがな”り”の右側の縦棒になりました。”以”の草書体は、以という漢字を筆書きして略した字にするイメージで考えると分かりやすいです。渥美(あつみ)など人名ではよく「み」と読まれていますが、この音がひらがなの”み”の読み方になっています。”安”の草書体を簡略化してひらがなの”あ”となりましたが、現代の”安”をそのまま書き崩してできたわけではありません。「遠」は久遠(くおん)、遠国(おんごく)などのように「おん」と読みますが、古い仮名遣いでは「をん」と書いていました。”和”の左側の「禾」からそのまま右側の「口」に続けてかくことからひらがなの”わ”が生まれました。”知”は、知識(ちしき)、知恵(ちえ)などのように「ち」の音がありますが、これがそのままひらがなの”ち”の発音になっています。”与”は、漢字の「與」の略体ですから、”よ”は”與”に由来するという言い方をしても、決して間違いとは言えないでしょう。ちなみに、”与”の横棒を”突き出して書くようになったのは室町時代からと言われています。”女”の筆順は、「く」、「ノ」、「一」ですが、この筆順を続けて書くことで”め”となります。”礼”は、しめすへん「ネ」で構成されていますが、「ネ」を略して書くと、手偏(てへん)の横棒が無いような形状になり、右側が略された形状とつながって、ひらがなの”れ”になりました。また、ひらがなの発音と漢字の音との関係が良く分かるように解説も加えました。”世”は、世界(せかい)、世帯(せたい)などのように「せ」と読みますが、この読み方がそのままひらがな”せ”の音になっています。”武”は武蔵(むさし)のように、「む」と読みますが、これがそのままひらがなの”む”の音になっています。以上のように、ひらがなの由来の漢字を示しましたが、分かりにくいひらがなもあるかと思います。そして、2つの点と「呂」のような字体を続けて筆記しながら更に簡略した書き方にすると、ひらがなの”そ”になります。なお、カタカナの”ネ”もひらがなと同様に、漢字の”祢から生まれましたが、この場合は”祢”のへん(しめすへん)からできました。”川”を一筆で続けて書くと、上記のように3段に波を打ったような略体といわれる曲線になりますが、この時”川”の三画目の縦線を左下へ払うような形で筆を流すと、”つ”に近い形状になります。呉音は南方系の読みと言われ、仏教関係の言葉によく見られ、白衣(びゃくえ)など”え”と読むのがその一例です。仮名が生まれた時代と一致しますし、中国から伝来するものは、朝鮮を経て伝わるものが多かったとう背景があるからです。これについては、漢字の”祢”からひらがなの”ね”が生まれたのと同じです。”以”は、以上(いじょう)など、「い」と読みますが、漢字の音「い」がそのまま、ひらがなの”い”の音になっています。つまり、”太”の「一」(初画の横棒)は”た”の横棒(初画)に、”太”の「ノ」(2画)は”た”の縦棒(2画)に、”太”の「\」のような形の部位(3画)は”た”の中の「こ」の上部(3画)に、”太”の「丶」(4画の点)は”た”の中の「こ」の下部(4画)に相当します。なお、カタカナの”モ”もひらがなと同様に、漢字の”毛”から生まれました。このような経緯で”止”を崩して書いた字が自然に変化して”と”になりました。”為”は、行為(こうい)、為政者(いせいしゃ)などのように「い」と読みますが、これがそのままひらがな”ゐ”の音「い」になっています。当時の”奴”は、「く」+「ノ」+「一」と書く「女」の部位において、「ノ」の上部を「一」の上に突き出して書くのが普通で、この書き方から変化したことで”め”のような字体になりました。”衣”の草書体をそのまま筆でくずして書いてできた字がひらがなの”え”です。”為”の4つの点「灬」を囲っている形状が”ゐ”の曲線に残っているのが分かると思います。なお、カタカナの”ト”もひらがなと同様に、漢字の”止”から生まれましたが、この場合は”止”の最初の2画からできました。”天”は「ニ」を書いて「人」を書きますが、これを筆で続けて書くと、「ニ」の下に「人」があるような字体になります。昔の中国(周、漢や魏など)の時代の音が残ったものと言われています。”也”は三画ですが、その3画目を曲げずに下に延ばすして書くことでひらがなの”や”になりました。形状がとても似ていて分かりやすいですね。”恵”は、知恵(ちえ)、恵比寿(えびす)などのように「え」と読みますが、これがそのままひらがな”ゑ”の音「え」になっています。”无”は横棒二本「ニ」を書いた後「ノ」と「乚」を書きますが、続けて書く中に「ニ」の部分が小さくなって「ノ」と「乚」がつながってひらがなの”ん”になりました。「久」は字音としては「きゅう」と読むのが一般的ですが、呉音(ひらがな”え”の項参照)の読み方としては久遠(くおん・仏教用語)などのように「く」と読みます。”奴”は、奴隷(どれい)のように「ど」と読みますが、これは漢音です。”奴”には呉音として、奴婢(ぬひ)、奴僕(ぬぼく)のように「ぬ」という読みかたがあり、この音がひらがなの”ぬ”の音になっています。”呂”は、風呂(ふろ)や登呂(とろ)などのように「ろ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ろ”の音になっています。その結果、行書でも草書でも「方」は「オ」のような字体をしていましたが、「オ」を書く筆順に続けて”於”の旁(つくり)の部位を書きましたので、”お”のような字体になりました。”遠”から”を”ができたことはイメージしにくいですが、”遠”を筆順に崩して書くことで”を”になりました。この時、二画目の「ノ」と「乙」を続けて筆記しようとして、「ノ」が右方向に払う「\」のような形状になり、そこから更に変化したのが、ひらがなの”さ”です。この書き方をはやく崩して書くことで自然と”つ”のようになりました。漢字の形状から考えるとイメージしにくいですが、筆の筆順を考えると”州”が”つ”になることがイメージしやすいと思います。”良”は、野良(のら)や奈良(なら)など「ら」と読みますから、これがひらがなの”ら”の音のなったように見えます。先日、上田市のアリオへ行ってきましたが、店内をぶらぶらしていると、ある案内表示に目が留まりました。それは、トイレやエレベータなどの案...ところで一見すると、「何で”曽”が”そ”になるの?」と言う感じもしますが、筆順を見て行くと理解しやすいです。ひらがなの”そ”は、「そ」のように一筆書きのように書くことがありますが、最初に点をうって「ソ」のように書いてから続けて「て」のように書いて、一筆書きのようにならない書き方があります。人間の目の高さは、頭の上部ではなく、ほぼ中央の高さに位置します。つまり頭頂とアゴの先端のほぼ中央の高さに位置するわけですが、目の位置...なお、カタカナの”ナ”もひらがなと同様に、漢字の”奈”から生まれましたが、この場合は”奈”の最初の2画からできました。なお、カタカナの”リ”もひらがなと同様に、漢字の”利”から生まれましたが、その誕生の仕方が異なります。”知”を書くときは、「矢」と「口」を書きますが、草書体を崩して書く過程で、「矢」は”ち”の中の「十」の形状の部位に、「口」は”ち”の中の「つ」の形状の部位に変化して行き、”ち”の文字になりました。”恵”を崩して書くなかで、”恵”の上部が「る」のような形状に変化し、「心」の部位がそれとつながって”ゑ”の字体になりました。現在の”女”は、2画目の「ノ」が3画目の「一」の上に出ることはありませんが、昔は2画目の「ノ」を3画目の「一」の上に突き出して書くのが通常でした。”比”は、比率(ひりつ)、比較(ひかく)などのように「ひ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ひ”の音になりました。”安”は、安全(あんぜん)、安泰(あんたい)など、「あん」と二音に読みますが、このうち「あ」の一音だけが、ひらがなの”あ”の音になりました。”止”は止(と)める、波止場(はとば)のように訓読みで「と」と発音しますが、実はこの「と」がひらがなの”と”の音になった訳ではありません。”津”は、近年でもひらがなの「つ」の代わりとして使われる漢字ですし、当然「つ」の音を持っています。”乃”は、乃木坂(のぎざか)のように「の」と読みますが、この音がそのままひらがなの”の”の音になっています。世の場合、草書体も行書体も筆記が似ていることから、草書体から変化したという説がある一方で、行書体を書き崩してできたと言う説も有力視されています。”部”は、部屋(へや)のように「へ」と読みますが、これがそのままひらがなの”へ”の音になりました。”曽”は簡易慣用字体とよばれ”曾”の異体字ですから、”曽”からできたとも言えます。3,4画目を続けて一筆で書くと、「L」のような形状になりますが、1,2画に続けてこの「L」を一筆で書こうとすると、ちょうど”と”を一筆書にした形状に近くなるのが分かると思います。”奈”は、奈良(なら)のように「な」の音がありますが、これがそのままひらがなの”な”の発音になっています。実は、ひらがなの”と”の発音は、”止”の古音(こおん)に由来しています。なお、カタカナの”メ”もひらがなと同様に、漢字の”女”から生まれましたが、カタカナの場合は、”女”の最初の2画から生まれました。計は「言」(ごんべん)と「十」の部位から構成されていますが、このうち「言」の筆が縦棒のように変化して”け”になったと考えると比較的理解しやすいと思います。二画と三画の縦棒を続けて書く流れから自然と縦画がひとつ簡略化されて、”せ”のような字体になりました。”お”の字体に「丶」(点)があるのは、”於”の右側の旁の部位を書くときに、下方の2つの点を先に書いてから上方の「∧」を書く筆順をしたことによります。なお、カタカナの”ホ”もひらがなと同様に、漢字の”保”から生まれましたが、この場合は”保”の最後の4画からできました。なお、カタカナの”フ”もひらがなと同様に、漢字の”不”から生まれましたが、この場合は”不”の最初の2画(本来の筆順)からできました。これは上述の「南無」を昔は「なむ」ではなく「なも」とも読んでいた場合などがあって、”毛”の音「も」も、「ん」の音に近い音とされていたからです。「礼」は礼節(れいせつ)、礼儀(れいぎ)などのように「れい」と読みますが、「れ」の一音だけを用いてかたかなの”れ”の読み方になっています。なお、カタカナの”ニ”は漢数字の”二”からできたと言われていますが、ひらがなと同様に、漢字の”仁”から生まれた(”仁”の旁から)という説もあります。草書体では、以の真ん中の点が左側の一画目の縦棒とつながるような筆記をしていました(図中の左の筆記)が、その筆記が縦方向に筆記されるようになり、「い」の左の縦棒になりました。”末”は5画ですが、三画目の「|」に続いて4画目、5画目を続けて筆記すると、「ま」の形状の字体になります。この時、「ニ」の部位が「一」のような形状に変化して、続く「人」の部位が”て”のカーブを描く曲線のように変化して”て”になりました。古音とは、ひらがな”つ”のところでも説明しましたが、古い音のことです。”良”の初画が”ら”の最初の「丶」(点)に該当し、全体の形状も似ているので比較的分かりやすいと思います。従って、当時のこのような字体から変化してひらがなの”る”が生まれたと考えるのが自然です。どちらも字体が似ているので分かりやすいですが、”毛”の通常の書き順(横線三本を先に書く)ではなく、あくまで(横、縦、横、横)の書き順を崩して書いた字から”も”が生まれました。この「计」を更に崩すとひらがなの”け”のような字体になることをイメージすると、「計」を簡略化して「け」が生まれた流れが分かりやすいでしょう。”太”は4画で”た”も4画ですが、それぞれ”太”の画が”た”の画に対応しています。なお、カタカナの”ヤ”もひらがなと同様に、漢字の”也”から生まれました。”寸”は、寸志(すんし)、寸法(すんぽう)、寸分(すんぶん)などのように「すん」と読みますが、この「すん」の一文字目の「す」の音が、ひらがな”す”の音になっています。その後、「人」に近い形状の一画目と二画目を続けて筆記するようになって、ひらがなの「く」となりました。「天」は天気(てんき)、天井(てんじょう)などのように「てん」と読みますが、最初の「て」の一音だけを用いてかたかなの”て”の読み方になっています。”安”は、ウ冠「宀」ですが、当時は草書体だけではなく行書体においてもワ冠「冖」を書いて、その下に女を書いていました。”与”は、供与(きょうよ)や与党(よとう)などのように「よ」と読みますが、これがそのままひらがなの”よ”の音になっています。なお、カタカナの”へ”もひらがなと同様に、漢字の”部”から生まれましたが、ひらがなと同じく”部”のおおざとからできました。仮名が発達した時代には「ん」という音そのものは無く、11世紀に入ってから「ん」という音が使われるようになった結果、「ん」に近い音を持つ「む」の仮名が転用されるようになりました。”止”は4画で、第1画目である「|」(縦棒)から書き始め、続いて第2画目である「-」の後、3,4画目を書きます。なお、カタカナの”キ”についてもひらがなと同様に、漢字の”幾”から生まれました。ひらがなの”き”の最終画が省略されてカタカナの”キ”になったと言われています。”於”は、「~に於(お)いて」と言うように、「お」と読みますが、これは訓読みでひらがなの”お”の音のもとではありません。そして、この「火」を使う字体「羙」が崩れてひらがなの”み”になりましたが、「火」の部分2つの点を先に書かずに、「人」の部分から先に書く筆順が簡略されて”み”になりました。上記の写真では理解しやすいように横棒を突き出した筆記をしています。”奈”は8画ですが、最初の2画「ナ」の部位が変化して”な”の最初の2画になり、”奈”の後半の6画(「\」のような形状の部位と「示」の部位」)が変化して”な”の中の「よ」のような形状の部位になりました。従って、”无”は無理(むり)、無視(むし)などのように”无”の異体字である”無”と同じ「む」の音を持っていました。そして、この省いた字体を草体で書いて崩した書き方をした結果、ひらがなの”き”となりました。なお、カタカナの”ン”もひらがなと同様に、漢字の”无”から生まれたとする説があります。これは、省文(せいぶん)や省字(せいじ)と呼ばれ、漢字の字画を省略する書き方で、他の漢字などでもよく使われてきた書き方です。リュウソウジャーや仮面ライダージオウなど、スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズは世代が変わっても、代々新しいヒーローが生まれ続け、いま...”う”は、宇部(うべ)など、「う」と読みますが、漢字の音「う」がそのまま、ひらがなの”う”の音になっています。ある公園の敷地内にある、送電線の鉄塔を何気なく見ていたら、子供達がふざけて鉄塔に登ったりしないように、鉄塔のまわりに柵がありました。...なお、カタカナの”オ”についても、漢字の”於”から生まれましたが、この場合は”於”のかたへん(ほうへん、とも言う)からできました。”和”は、平和(へいわ)や昭和(しょうわ)などのように「わ」と読みますが、これがそのままひらがなの”わ”の音になっています。昔は”无”は”無”の略字でもあったため、仏教用語である「南無」を「南无」とも書いていました。なお、カタカナの”レ”もひらがなと同様に、漢字の”礼”から生まれたと言われていますが、この場合は”礼”の右側が変化したと言われています。”ゐ”は現在では”い”に統一されていますが、昔の仮名遣いでは分けていました。”宇”の初画(上部の点)の部分が、”う”の初画の部分に相当します。”己”は楷書体では三画ですが、草書体では一筆書きのように全てを続けて筆記する一画になります。(図の左側)”仁”は、仁王(におう)のように「に」の音がありますが、これがそのままひらがなの”に”の発音になっています。”女”は、乙女(おとめ)のように「め」と読みますが、これがそのままひらがなの”め”の音になっています。つまり、”乃”を自然に一筆で筆記することで”の”のような字体へと変化して行ったのです。先日、柿の話を記事にした時に、「硬い柿」という表現をしましたが、漢字の「かたい」には固い・硬い・堅いの3種類があって、区別がつきにくいと感じ...”州”についても同様で、字音としてはシュウという音しかありません。しかし、”州”の古音に、比較的”つ”に近い音があることが分かっています。”与”をつなげて筆記して書き崩すことで”よ”となりましたが、当時の”与”の字は、”与”の横棒が右に突き出ない字体が普通でした。しかし、実際の”そ”の成り立ちは、「曽」の草書体から変化しましたから、曾と曽のどちらが字源と言っても問題はないでしょう。これは、字の形が比較的似ていることから分かりやすいと思います。字音とは、伝来時期や方言の差によって同一漢字で色々な音がありその読み方を言います。ここでは、由来の漢字を改めてきちんと整理してまとめ、対応する漢字からどのように変化したのかについて、その書体からの筆記の変化がハッキリ分かるようにしました。”州”を草体で書くと、上記のように丸を2つ描くように筆を走らせた後、”州”の終画の部分を長く伸ばします。”利”は、利害(りがい)や利益(りえき)のように「り」と読みますが、これがひらがな”り”の音になりました。読んでいても面白く、けっこう読まれていた記事でも、過去の記事となっていまうと、あまり読まれなくなることもあります。せっかくの...”留”は、今はこのように書きますが、昔は”留”の「刀」の部位の代わりに「口」を書く字体や、「田」の上に「口」を横に2つ並べて書く字を書くのが一般的でした。幾は、幾何(きか)などのように「き」と発音しますが、これがそのままひらがなの”き”の音になっています。漢字の”乃”の形状だけ見ると、そこからひらがなの”の”が生まれたことはイメージしにくいですが、”乃”の初画はあくまで「ノ」の部分ですから、そこから二画目につながるように筆記すると、”の”のような形状になることが分かると思います。”之”は三画ですが、初画の「丶」(てん)以降の2画と3画を続けて書き、簡略化すると波を打った縦棒のようになりますが、これが変化してひらがなの”し”になりました。実際は、奈良時代には”礼”のしめすへん「ネ」の代わりに、のぎへん「禾」を用いる字体がよく書かれていましたので、その字体から変化したと考えるべきだと言われています。”留”は、留守(るす)のように「る」と読みますが、これがそのままひらがなの”る”の音になっています。この形状から波を打った字体がなだらかになって”つ”になりました。このうちの「た」の音が、そのままひらがな”た”の音になったようです。また、ひらがなの「ん」は漢字の「无」に由来するとは言われていますが、”毛”が由来という説もあります。では、「あいうえお」ひとつひとつの元となった漢字を見てみましょう。全体をまとめると下記の表のようになります。個々のひらがなをクリックすると詳細の説明へとびます。そして、この突き出る部分が、ウ冠「宀」の初画の「丶」(点)とつながる字体になっていて、この筆順で書き崩したのが、ひらがなの”あ”です。”ゑ”は現在では”え”に統一されていますが、昔の仮名遣いでは分けていました。日常使う言葉としてはありませんが、”於”には、音読みとして「お」という読み方もあり、この音読みがひらがなの”お”の音になっています。なお、カタカナの”ロ”もひらがなと同様に、漢字の”呂”から生まれましたが、この場合は”呂”の画の一部からできました。”也”は、古文などで反語や疑問を表す「・・・や」などに漢字を用いる他はあまり「や」の読みとしては使われないようですが、達也(たつや)、竜也(りゅうや)、昌也(まさや)など、人名などで「や」の読みとして使われます。なお、カタカナの”シ”もひらがなと同じで漢字の”之”からできましたが、これは”し”の上部に「丶」(てん)を打つ書き方において、最後の画を右上に跳ね上げるように筆記するようになって生まれました。なお、カタカナの”ユ”もひらがなと同様に、漢字の”由”から生まれましたが、この場合は、”由”の最後の二画から変化してできたと言われています。上記の様に、ひらがなの場合は”利”を崩して書いた結果として”り”になりましたが、カタカナの場合は”利”のりっとう「リ」から生まれました。なお、カタカナの”ヱ”もひらがなと同様に、漢字の”恵”から生まれたとするのが有力な説になっています。小学校時代の遠い記憶にはあったのですが、ほとんど思い出せず、却って興味津々になったのです。通常の書き順だと”わ”のような字体にはなりにくいことがよく分かると思います。昔の朝鮮(新羅の時代以降)で用いられた表記法に、吏読(りと)と呼ばれ、漢字の音訓を用いて朝鮮語の助詞や助動詞を書きあらわしていたものがありましたが、その表記の中で”良”を「ら」と読んでいたそうです。”奴”を筆順に従って、一筆書きのように続けて書くと、”ぬ”に近い形状になります。その形状から変化して”ぬ”なりました。「計」は合計(ごうけい)、計算(けいさん)などのように「けい」と読みますが、このうち「け」の一音だけを用いてかたかなの”け”の読み方になっています。闘(鬪)を草書体で筆記すると、下図のように上部が「つ」のような筆記になりますが、これが鬪が「つ」の由来であるとする説の根拠のようです。また、ひらがな「つ」の由来には諸説が多く、”州”や”川”の他にも”津”や”鬪”から作られたともいわれています。”美”という漢字は、「羊」と「大」から生まれましたが、8世紀頃の日本ではこの「大」の代わりに「火」と書く字体がよく使われていました。スーパーなどで売っている落花生、いわゆるピーナッツですが、外皮を剥いて中身の豆だけをパッケージにして販売している商品もあれば、外皮がついたそ...”太”は、太陽(たいよう)、太宰府(だざいふ)、太刀(たち)など、「たい」と「だ」と「た」の3つの音があります。”曽”は11画で最初の2画に相当する2つの点と、中間にある「田」(5画)と、下方にある「日」(4画)の部位で構成されています。なお、カタカナの”ヌ”もひらがなと同様に、漢字の”奴から生まれましたが、この場合は”奴”の旁(つくり)からできました。そして、ひらがなが発達した平安初期以前の奈良時代の書物の中にも既に「せ」という字体が随所に見られることから、この「せ」の書き方がそのままひらがなの”せ”になったのではないかと考えられています。中国語の「計」は、現在では簡略された文字(簡体字)となって「计」となっていますが、これはごんべんの筆記を簡略化することで生まれています。於の旁(右側)は、草体から変化する過程で、下の点2つを先に書いていたなお、カタカナの”ノ”もひらがなと同様に、漢字の”乃から生まれましたが、この場合は”乃”の初画からできました。なお、カタカナの”カ”についても、漢字の”加”から生まれましたが、この場合は”加”のへんからできました。”保”は、保険(ほけん)、保育(ほいく)のように「ほ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ほ”の音になりました。天地無用と聞いて、「天と地、つまり上下を逆さまにしても構わない」という意味だと解釈している人が多いそうです。本当は、「天と地、つまり...”左”は左右(さゆう)、左遷(させん)などのよう「さ」と読みますから、これがそのままひらがな”さ”の発音になっています。筆記を考えるとイメージしにくい面がありますが、草書体には「つ」を連想させる点があります。ひらがなの中には、今日の漢字の筆順とは違う書き方で生まれたものがありますが、ひらがなの”あ”もその一つです。なお、カタカナの”コ”もひらがなと同じで漢字の”己”からできましたが、この場合は”己”の最初の2画からできました。”み”の終画である「ノ」の部分があるのは、「大」の部位を持つ”美”からではなく、「火」の部位を持つ羙から生まれたことのあらわれです。実は、”川”の古音(こおん)には「つん」という音があり、この音の一音目の「つ」がひらがなの”つ”の音になりました。最初の2画の点の後に「田」と「日」を続けて書くと、2つの点の下に「呂」に似た形状の字体があるようになります。”寸”は「一」+「亅」+「丶」の三画ですが、二画目の縦棒「亅」と三画目の点「丶」とを続けて筆記する字体から”す”となりました。古音(こおん)とは、呉音が伝わる前から日本に伝来していた漢字の音のことで、古い万葉仮名などで使われていました。”宇”という漢字を筆でそのままくずして書いてできた字がひらがなの”う”です。”ゐ”は”為”を大きく崩してかなり簡略化されていますのでイメージしにくいですが、”ゐ”は確かに”為”から生また字です。”比”をそのままの筆順で崩し書きしても”ひ”のような字体にはなりません。”由”は、由来(ゆらい)のように「ゆ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ゆ”の音になっています。久は三画で「ノ」+「フ」+「\」の順に書きますが、字体を崩して書く過程で「ノ」と「フ」を続けて書いた後に「\」を書くようになった結果、「人」という漢字の一画目の上部が波を打って少し長めになるような「人」に近い形状の字体になりました。とても分かりにくいですが、楷書体とは全く異なる筆順だからこそ、字体も大きく異なっています。なお、カタカナの”テ”もひらがなと同様に、漢字の”天”から生まれましたが、この場合は天の最初の3画(終画の略)からできました。しかし、先に「日」と書いてから最後に縦棒「|」を書く順で筆記して簡略化しても”ゆ”の字体になることから、筆順としてはこちらの方が自然だと言う説もあります。女の字を「く」「ノ」「一」の順に書く時に、「く」の上部がワ冠「冖」の上に突き出ていました。(ちなみに、「ノ」は「一」の上に突き出ていた)中国語では”川”をチュアン(ピンイン表記:chuan)と発音しますが、この古音「つん」の名残が残っていると言えます。”祢”は9画で、しめすへんの「ネ」と旁(つくり)の部分「尓」から構成されていますが、「ネ」を略して書くと、手偏(てへん)の横棒が無いような形状になり、右側の「尓」が略された形状とつながって、ひらがなの”ね”になりました。”爲”は”為”の旧字(異体字)に相当し、現在では”為”が使われますから、字源としては同等の意味になります。これは、衣には漢音の「い」と呉音の「え」の2つの字音があり、呉音の「え」がひらがな「え」の読みになっているからです。”之”は、一般に「これ」、「この」、「の」などと読み、「し」という読み方は固有名詞で使うくらいしか馴染みが有りませんが、字音としては「し」の読みをします。つまり、”比”の左辺を書いた後に続けて「ヒ」の横棒を左から右につなげて書くような筆順から”ひ”に変化して行きました。しかし、”良”には本来、漢音の「りょう」と呉音の「ろう」という読みしかありません。世は、行書体でも草書体でも四画で、どちらも楷書体の四画を略して3画目を左方向に払う筆記になります。この際、「禾」の書き順は、通常の「ノ」の後に「一」を書く順ではなく、「ノ」の後に「|」を書く順で書いたことから「口」につながって”わ”の字体になりました。”由”は、「冂」を書いた後に、縦棒「|」をかいてから残りの横線二本を書く筆順ですが、これを崩して書くことで”ゆ”となります。書体の流れで説明すると、楷書体を崩したものが行書体ですが、この行書体をさらに崩して点や画を省略し、曲線を多くして書き表したものが草書体です。この草書体を更に簡略化して生まれた文字が「ひらがな」です。生活上の日々の疑問を考え、「なるほど!」となっとくを目指すブログ禰宜(ねぎ)のように祢も禰も「ね」という呉音を持ちますが、これがひらがなの”ね”の音になっています。”惠”は”恵”の旧字に相当し、現在では”恵”が使われますから、字源としては同等の意味になります。”川”は、河川(かせん)のように「せん」と読みますが、「つ」という音は持っていないのです。”曽”は、木曽(きそ)のように「そ」と読みますが、この読み方がそのままひらがな”そ”の音になっています。”美”は、美化(びか)や美術(美術)などのように漢音の「び」と読むことが多いのですが、呉音には「み」の読みがあります。「末」は期末(きまつ)、末尾(まつび)などのように「まつ」と読みますが、「ま」の一音だけを用いてかたかなの”ま”の読み方になっています。一方、以の右側(人のような字体)は楷書では二画ですが、草書では一筆(一画)で書き、これが簡素化されて”い”の右側の縦棒になりました。なお、カタカナの”ソ”もひらがなと同様に、漢字の”曽”から生まれましたが、この場合は曽の最初の2画からできました。
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