読書感想文「蹴りたい背中(綿矢りさ)」 読書感想文「雨の日も、晴れ男 (水野敬也)」 読書感想文「別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判(佐野眞一)」 読書感想文「レインツリーの国(有川浩)」 4 件のコメント.
ページ数の少ない【小説】(感想文向き) 『蹴りたい背中』綿矢りさ 『星の王子さま』サン=テグジュペリ/著 『スイッチを押すとき』山田悠介; 映画化された小説で読書を楽にするのもアリ 『陰日向に咲く』劇団ひとり 『桐島、部活やめるってよ』朝井リョウ
しかし、司教はその過ちをも受け入れる。そして、身を削り、おまけに司教が唯一大切にしていた持ち物の銀の燭台をチャンスと共に与えるのだ。壮大な物語はそこから始まる。ジャンは改心し、二部では一つの町の市長“マドレーヌさん”へと姿を変える。自分を悪の道から救い上げてくれた司祭のような人物を目指したのだ。© 2020 感想ライブラリー. 読書感想文「星の王子さま – The Little Prince(サン・テグジュペリ)」 読書感想文「蹴りたい背中(綿矢りさ)」 読書感想文「海賊とよばれた男(百田尚樹)」 読書感想文「別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判(佐野眞一)」 ハツは、周囲との関係を拒みながらも、それでも周囲からの視線を凄~く気にしている。それに対して、にな川は、まるで世界には自分とオリチャン(雑誌のアイドル)しかいないと思っているのではないかと疑われるほど、自分の世界に没頭している。周囲からどう思われるとか全く考えていない。あるいは大人になった彼らは、学生時代の気持ちなんて忘れてしまうんだろうか?そして読み進めると、研ぎ澄まされているのは聴覚だけでなく五感すべてであることが分かってきます。主人公ハツとにな川の出会いは、にな川が授業中に雑誌でアイドルを見ているところをハツが指摘するという場面でした。これも二人の奇妙な(こそこそとした)関係を象徴しているようであります。そういう、程度の差はあれ誰もが青春期に抱える、共感したくもないのに共感できてしまうような心性が描かれているのです。だから話題になったんですね。そしてにな川に興味を持っていく…んだけど、それは恋愛的なものであるようなないような…なんですよね。この二人は、ともに所謂陰キャであるわけですが、そのスタンスは大きく異なります。恋愛ではないとも言えるし、恋愛だとも言える。同族嫌悪と恋愛的な感情(と呼べるのかどうかもハツ自身不明なもの)が混在した歪な気持ちを抱えたまま、にな川の家に行く。綿矢りささんの作品は、私の中では『ひらいて』『手のひらの京』に続く3作目でした。そんな中、同じく孤独なクラスメートで、オリチャンというアイドルの熱狂的なファンである男子・にな川に、彼の部屋に招待されることになる。ハツとにな川には、幸せな大人になって欲しいなあという気持ちが強いです。主人公は陸上部の高校一年生の長谷川初実。クラスメートと上手く打ち解けられない。話は逸れるけど、ツイッターとかでこういうツイートをしたらウケそうですよね。だからこそハツは、「なんでこいつはこれで平気なのか?」と思うわけです。私は、余り物も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなけれならない、不毛なものだから。中学生の頃、話に詰まって目を泳がせて、つまらない話題にしがみついて、そしてなんとか盛り上げようと、けたたましく笑い声をあげている時なんかは、授業の中休みの十分間が永遠にも思えた。にな川と分かりやすい恋愛関係になるわけでもなく、友人の絹代に冷やかされながらも、その後も何度かにな川の部屋に遊びに行ったり、一緒にアイドルのライブを観に行ったりするが…。そしてこれがありがちな漫画なら、主人公ハツは途中から男子にモテはじめたりするんでしょうが、そうはなりません。残念!w逆に、このハツの気持ちに共感できない人は、きっと幸せな学生生活を送ってきたんだろうな~という感じです。皮肉ではなく。なんか、クイズ番組とかで出てきそうだな~って思いました。「~という冒頭で始まる、史上最年少で芥川賞を受賞した作品は?」みたいな。まあでも、余り者になるのもグループになるのも嫌だって気持ちには共感できます。寝る前や電車内なんかで、目をつぶって本を読めるというのはなかなか良いですよ。さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。でね、これがありがちな漫画だと、にな川はクラスで何故か浮いてるイケメンとかになるんでしょうが、残念ながら『蹴りたい背中』のにな川は、普通の陰キャ男子です。残念!w
All rights reserved.この物語は部によって、主人公が変わるのだが、本質的な主人公は一貫してジャン・ヴァルジャンなのである。そのジャンが司教の救いによってもたらした影響を眺める作品と言えよう。司教のような人間は僕にとって軽蔑の対象である。偽善的で、与えるだけでは人は変われない。“どうせ”過ちを繰り返すのだろう。そう、もくろみ通りなのである。十九世紀のフランスは本作でも大きく語られるのだが、あまり治安が良いとは言えないのである。困った人間はジャンのようにパンを盗んで捕らえられることもある。完訳のほうでは語られていた通り、街中の建設物に居を構える浮浪児もいる。司教のような人物は異端なのである。彼は正直者だ。自ら逮捕される道を選んだ。今までマドレーヌさんを慕っていた人々から後ろ指を刺されてしまうのである。人々は人間を見ているのではなく、人間の業だけを見ていたのである。ここまで述べたうえで、僕が本作に感じたことを書こうと思う。第一に、犯罪を犯した人間にもチャンスが与えられるべきだというような世界の上でこの物語は始まっている。今はまだその途中だ。犯罪は犯す人間が悪いのでなく、犯さざるをえない状況が悪い。人間自体に罪はない。そう信じて生きてみようと思う。ジャンは再度罪を犯す。しかし、ジャンは再度司教に許されることによって、善の道へと進むことを覚悟する。現実にこういうことが起こる可能性は限りなく低い。しかし、ジャン・ヴァルジャンは超人的な覚悟、頭脳、身体能力をもってして変わっていくのだ。十代で数ヶ月掛けて読み終えた本書を、六十代の今読み直しました。ユゴー特有の脱線があんなに辛かったのに、今は興味深く読めている自分に驚いたりしています。本書で語られている悲惨は、決してあの時代やフランスに限ったものでなく、現在の日本に違った形であれより大きく横たわている現実なのだと、実感しました。本書の冒頭にあるユゴーの言葉を、もう一度読み直しました。マドレーヌさんは持ち前の器量の良さ、施しの精神を市民に与え、まっとうで素直な人物として愛される。しかし、過去の悪行が祟り、市長付きの刑務官ジャヴェールにジャン・ヴァルジャンであることを疑われる。そして、ジャンが犯した犯罪の罪を誤った人間が被ろうとするときにマドレーヌさんはジャンを名乗るのである。
本記事では、芥川賞を受賞した綿矢りささんの『蹴りたい背中』の拙い感想を書きます。 おわ子. 【書評】『蹴りたい背中』のあらすじ・感想と考察は?綿矢りさ【芥川賞】 owako 2020年2月4日 / 2020年3月14日.