一般的な短編よりは長いですが、長編小説と呼べるほど長くはありません。 作品紹介 「ティファニーで朝食を」 は、1958年(昭和33年)に出版された トルーマン・カポーティ の中編小説です。 原題は 「Breakfast at Tiffany’s」 。. 『ティファニーで朝食を』のヒロインがすごい. Amazonでカポーティ, 龍口 直太郎のティファニーで朝食を (新潮文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。カポーティ, 龍口 直太郎作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またティファニーで朝食を (新潮文庫)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 1978年発行の龍口直太郎訳の新潮文庫版と比べると、私は読みやすさ・センス共に村上版の方が圧倒的にいいと思う。ちょっと「ティファニーで朝食を」の頭の数行を引用してみる。 龍口直太郎訳 「私がいなくなって淋しがってくれる人なんて、どこにもいやしない。一人の友達もいないんだもの」我々の大方はしょっちゅう人格を作り直す。(略)我々が変化を遂げていくのは自然なことなのだ。ところがここに、何があろうと断じて変化しようとしない二人の人物がいる。ミルドレッド・グロスマンとホリー・ゴライトリーの二人だ。(略)彼女たちが変化しようとしないのは、彼女たちの人格があまりにも早い時期に定められてしまったためだ。一般に野生動物の寿命はペットの半分程度と見られている。野性のように自由に生きようとする彼女を、周囲の男たちはハラハラしながら見守る。でも、誰も彼女に首輪をつけられない。なんとか捕まえようとしても、スルリと逃げられてしまう。旅に暮らすのは男の憧れ。そりゃ寂しかろうけど、鳥みたいに自由にアチコチに行ってみたい、そう憧れる月給取りは多いだろう。気ままな鳥や猫に惚れちまったら、どうすりゃいいのか。無理矢理飼えば長生きさせられるだろうけど、それが鳥や猫にとって幸福なのかどうか。幼い頃から野生動物のように生きなければならなかったホリー。そして今でも全てを失う不安を抱えて生きている。万引きの後、彼女は語る。「今でもちょくちょくやってる。腕を錆びつかせないために」。不安を抱える反面、全てを失っても生きていける、という自信もある。身一つこそ、彼女の世界なのだから。好き勝手に生きているようで、安住の地を求めてもいる。ただ、今はまだ見つからないだけ。それまで、親友の猫には名前をつけない。自分が自分でいられる場所を求め、他の者に縛られる事を嫌う。安定が欲しい、地に足をつけたい、でもどこにも安住の地は見つからない。溜まったストレスが、「いやったらしいアカ」として噴出する。そう、青じゃない、赤なのだ。それは、怒りの色だ。敵意の中で生きてきた彼女が、世界に対し根底に持つ感情の色。「ついにこんなことになってしまった。いつまでたっても同じことの繰り返し。終わることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったとわかるんだ」だから、ホリーは旅に出る。安住の地を探して。こことは違うどこかを求めて。本当は、彼女も地に足をつけた生活がしたいのだ。だから、ホセ・イバラ=イェーガーとの話がまとまりそうになると、彼女なりに定住の準備を始める。そこが安住の地であると、自分に思い込ませようとする。ホリー・ゴライトリーとは何者か、というのが、この作品の解釈のキモ。自由気ままに生きているようで、その実、安住の地を探している。それは冒頭の引用でも明らか。つまり彼女は安住しないのではなく、できないのだ、というのが、私の解釈。好きで自由でいるわけじゃない。自分を野生動物に例えた後、野生動物の生き方を、彼女自身がこう語っている。原書は BREAKFAST AT TIFFANY'S by Truman Capote, 1958。日本語版は1960年に新潮社から龍口直太郎訳で単行本が出版、その後文庫本が出て、2008年2月25日に村上春樹訳で改訂版発行。今は新潮文庫から文庫本(村上春樹訳)が出ている。単行本ソフトカバーで縦一段組み、本文約205頁+訳者あとがき13頁。9.5ポイント45字×17行×205頁=約156,825字、400字詰め原稿用紙で約393枚。短めの長編小説の分量。旅はシンドイけど、不安定で危険も多いけど、それが彼女の生き方なら、見守るのが精一杯なのかもしれない。…というのが、普通の解釈。でも、全部読み終えると、また別の解釈もできて。こっちはネタバレありなので、末尾に。龍口版だと一人称が「私」で、最初の文は「…である」で締めている。この冒頭で、どんな語り手を思い浮かべるだろう?少々歳のいった、お堅い職業の男性だろう。村上訳の一人称は「僕」で、もっと若い男性を意識させる。投稿: 土竜男爵 | 2012年10月14日 (日) 15時48分「…この子とはある日、川べりで巡り会ったの。私たちはお互い誰のものでもない、独立した人格なわけ。私もこの子も。自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかってる」 ――ティファニーで朝食を若い作家志望の青年が一人暮らしを始め、奔放な娘ホリー・ゴライトリーに振り回される話。定職に就かず、多くの男をはべらせ、ハリウッドのスカウトをあっさり棒に振る。気ままで怖いもの知らず、「いつだって自分のことは自分でちゃあんとやってきた」と独立心旺盛。そう、まるで猫のような女の子。彼女が人を信じられれば、彼女は安住の地を手に入れられる。でもアメリカはだめ、アメリカは信じられない、幼いホリーを放り出した国だから。そして彼女はメキシコやブラジルに憧れる。そこなら、こことは違うどこかなら、人を信じられるかもしれない。彼女の魅力に憑かれ、多くの男たちが集まってくる。例えばハリウッドで彼女をスカウトしたO・J・バーマン。せっかくのチャンスを棒に振られ、その事を恨みに思っちゃいるが、それでも彼女に未練たらたらで、彼女のいない所では「あたしはあの子のことが心底好きなんだよ」と典型的なツンデレぶり。それも男女の関係というより、父性愛的な方向で。うん、魅力的なヒロインだよね。気まぐれで猫みたいな若い女性。でも、少し痛々しい。それがまた、男たちの保護欲をそそる。「僕」、バーマン、そしてジョー・ベルも。終盤で見せる彼のツンデレは、もはや究極。オッサンのツンデレもいいもんだね。土竜男爵さん、ご指摘に感謝します。本文に反映させていただきます。反面、好意・厚意は理解できない。ドクの家の居心地が悪いのは、そのため。だから飛び出した。慣れたジャングルで、ルールが分かってる冷たい他人の世界で暮らすために。バーマンや「僕」の想いも、彼女には戸惑いしか与えない。でも、庇護者を求めている。だから、年配者に惹かれてしまう。ファザコンというマグ・ワイルドウッドの指摘は、ある意味あたってる。ただ、それは実在の人物ではなく、彼女の心が理想として求める父親像。…ま、こんな解釈じゃ、映画は当たらないよね。結末を変えたのは正解でしょう。やっぱり可愛いオードリーにはハッピーエンドが似合うし…って、実は映画は観てないけど。「空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消えうせていく場所なの」普段の村上節はやや控えめながら、それでも文章には彼のセンスがにじみ出ていて、翻訳物の小説としてはかなり読みやすい。1978年発行の龍口直太郎訳の新潮文庫版と比べると、私は読みやすさ・センス共に村上版の方が圧倒的にいいと思う。ちょっと「ティファニーで朝食を」の頭の数行を引用してみる。1924年生まれのアメリカの人気作家トルーマン・カポーティによる1958年の中・短編集。第二次世界大戦時のニューヨークを舞台に、奔放な生き様で周囲を翻弄する若い女性ホリー・ゴライトリーを描き、すぐにオードリー・ヘップバーン主演で映画化され、今なお愛される中篇「ティファニーで朝食を」に加え、3編の短編を収録。幼くして大人にならなきゃいけなかった人間。それは、ドク登場以前にガリ勉のミルドレッド・グロスマンとの対比で「僕」が見抜いている。実は小説世界じゃホリーの血は脈々と受け継がれ、21世紀の日本にも転生してたりする。なんでも神戸の高校に通ってて、こう名乗ってるそうな。「涼宮ハルヒ」と。浮浪児に世間の目は冷たい。だから悪意・敵意には敏感になる。「僕」に背を向けながらも、ホリーは「僕」の怒りを感じ取る。「あなたはさっきそうしたいと思ったでしょう。手の感じでわかるのよ」。アダルトチルドレンが人と親しくなる際、相手を「試す」。敢えて失礼な行動をして、相手が怒るかどうか、許容度がどれぐらいか、試すのだ。ユニオシは失格した。バーマンも怒った。「僕」も怒ってしまった。それが普通だ。怒りは一時的なものだ。だから三人とも彼女への厚意は続いている。でも、彼女は三人に信頼を置けない。大切な絆があるのに、それに気づくのは手遅れになってから。全ての人間を、社会を彼女は信じきれない。地に足をつけたいと願う、でも他の人のように彼女は地が確たるものには思えない。どうせどっちも不安定なら、空の方が気分がいい。だから彼女は飛ぶ。物語の形式は、30代の男性作家による、20代でデビュー直前の頃の思い出話だ。当事のカポーティーは充分に成功していたから、語り手として「私」も悪くないけど、実際の文章の大半は20代の若者の視点で語られる。まだ一作も売れていない作家志望青年の一人称としては、やっぱり「僕」がハマってると思う。
1958年、アメリカの作家トルーマン・カポーティによって発表された 『ティファニーで朝食を』 。 女優オードリー・ヘップバーンがヒロインを演じていた映画の方が、小説より知られているかもしれません。