《24のカプリース》の超絶技巧と音楽性は後世の作曲家に大きな影響を与えました。特にその影響を受けたのがフランツ・リス卜です。 リストがパガニーニの生演奏を聴いたのは21歳の時。そのときリストは感激のあまり「(私は)ピアノのパガニーニになる! パガニーニの友人ラッツァロ・レビッツォ(Lazzaro Rebizzo)は、「カジノ・パガニーニ」と称された新しい音楽事業の株主となるようにパガニーニに勧めた。1837年6月、パガニーニは新しい事業のためにパリに赴くも、悪い健康上のため事業を続けることができず、失敗に終わる。パガニーニは、もはや演奏者として十分な役割を果たすことができなくなっていたものの、作曲に対する意欲を失うことはなかった。パリにて、パガニーニは『春 イ短調』(La primavera)と『バレット、牧歌、変奏曲』(Balletto campestre)といったヴァイオリンと管弦楽のための楽曲を生み出した。パリを離れる1838年末の前、パガニーニは、友人のフランスの作曲家ベルリオーズ(Louis-Hector Berlioz)に宛てて短い手紙とともに20.000フランの小切手を送った。ベルリオーズは、『ロミオとジュリエット』(Roméo et Juliette)を捧げるかたちでその友情に応えた。カジノの件で、パリでの法的手続きを逃れようとしたパガニーニは、外国人の判決を法的に施行することができないサルデーニャ王国に属する街ニッツァ ― 今日のフランス領ニース ― に移った。この地でパガニーニは弦楽器を扱うディーラーとして活動した。パガニーニがついに死の床についても、その不信心な行動を司教たちに咎められ、神聖な地での葬式を禁じられた。1840年5月27日、パガニーニはニースにて死去したが、彼の遺体は、死後36年経ってようやくパルマの共同墓地に埋葬された。ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini):生:1782年10月27日(ジェノヴァ共和国 (現在のイタリア共和国のジェノヴァ))/没 : 1840年5月27日(サルデーニャ王国領ニッツァ(現在のフランス共和国ニース))。イタリアのヴァイオリニスト・作曲家。彼の優れた技能は、ヴァイオリンの歴史に貢献したとともに、同時代のロマン派の音楽家たちにも大きな影響を与えた。1829年1月、およそ2年続くこととなるパガニーニのドイツ演奏旅行が始まった。ここで彼は再び、ルイ・シューボア(Louis Spohr) やヒュンメル(Hummel)、シューマン(Schumann)、クララ・シューマン(Clara Wieck- Schumann)そしてゲーテ(Goethe)と出会った。またベルリンでパガニーニは、プロイセン王の音楽活動を担当するスポンティーニというスポンサーを得た。この頃、パガニーニは『ヴァイオリン協奏曲 第4番ニ短調』(Concerto no.4, d)を作曲し、さらにヴァイオリンのための曲『ヴェネツィアの謝肉祭』(Il Carnevale di Venezia)と『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』(God Save the King)を作曲した。パリの批評家たちにもパガニーニの演奏技巧は認められたものの、ロンドンの王立劇場のマネージャーであるピエール-フランソワ・ラポルト(Pierre-François Laporte)からの招待によって、パガニーニはパリを早々に去り、1831年5月14日、ロンドンに到着する。公演チケットが誤って2倍の値段で宣伝され人々の怒りを買ったことにより、公演の延期が余儀なくされたものの、1831年6月3日に開催された王立劇場での初公演は大成功を収めた。ロンドンでパガニーニは、ピオ・チャンケッティ(Pio Cianchettini)、マイケル・コスタ(Michael Costa)、ドラゴネッティ(Dragonetti)、ニコラス・モリ(Nicolas Mori)、ジュディッタ・パスタ(Giuditta Pasta)そしてパオロ・スパニョレッティ(Paolo Spagnoletti)といったイタリアの音楽家たちに出会った。1831年8月初め、パガニーニはアイルランドとスコットランドでの演奏旅行を開始し、ダブリンでは、アイルランドの民族音楽に基づく変奏曲『聖パトリックの日』(St Patrick’s Day)を提供した。1832年3月にはロンドンに戻ったものの、パガニーニは再びパリに赴くことを計画した。休む間も無い演奏旅行が続く生活にパガニーニの健康状態は不安定なものであったために、この時期にパリにてパガニーニが作曲したのは次の2曲のみである;弦楽器のための『モト・ペルオペトゥオ』 (Moto perpetuo)(弦楽四重奏no.14より)、ヴァイオリンのための『サン・ベルナール修道院』(Le couvent du Mont Saint Bernard)。1810年、パガニーニは独立を決意し、エミリオ・ロマーニャ地方とロンバルディア地方のコンサートツアーを開始した。ミラノにて、パガニーニは、アレッサンドロ・ロッラによって、ミラノのスカラ座のコンサートマスターに任命され、ヴァイオリンとオーケストラのための3つの変奏曲『魔女たちの踊り ニ長調』(Le streghe)を作曲した。パガニーニはミラノにて演奏家として成功を収めたものの、同時に非難も受けた。例えば、ペーター・リヒテンタール(Peter Lichtenthal)は、パガニーニの演奏をスコアに忠実ではない自由すぎる解釈だとして批判した。1814年、パガニーニはミラノからジェノヴァのオペラハウス、サン・アゴスティーノ(St. またこの曲は、パガニーニの代表作であるとともに、彼が初めて出版した曲でもあります。この曲の聴きどころといえば、やはり最終曲の第24番クワジ・プレスト。全曲をまとめるにふさわしい華々しい変奏曲で、単独で演奏されることも多いです。《24のカプリース》の超絶技巧と音楽性は後世の作曲家に大きな影響を与えました。特にその影響を受けたのがフランツ・リス卜です。舞曲や行進曲のリズム、バロック音楽やジプシー音楽の影響、ヴェネツィアの舟歌からの引用やギターのトレモロ奏法の模倣などがその例です。ラフマニノフが『パガニーニの主題による狂詩曲』を作曲しています。ネコガクはクラシック音楽や民謡、童謡など、世界中の音楽をテーマにしたブログです。あまり音楽について詳しくない初心者の方向けのコンテンツなので、難しい専門的なことについては基本的に触れません。© 2020 ネコクラ All rights reserved.《24のカプリース》は1800年から1810年頃にかけて、パガニーニの故郷ジェノバで作曲されたとみられています。ただ資料があまりないので、なぜこの曲を作曲したのか、動機はわかっていません。パガニーニはバイオリンの超越した演奏技術を得る為に「悪魔に魂を売り渡した」とまでいわれた、超絶技巧のバイオリニスト。そんな彼の代表作である《24のカプリース》は、数あるバイオリン曲の中でも最高難易度に分類される楽曲です。リストがパガニーニの生演奏を聴いたのは21歳の時。そのときリストは感激のあまり「(私は)ピアノのパガニーニになる!」と叫んだといわれています。《24のカプリース》には、それまでの形式に囚われない様々な音楽が用いられています。《24のカプリース》の演奏難易度は以下の通り。ドイツの楽譜出版社ヘンレの難易度を基にしています。初版譜には「alli artisti(すべてのアーティストへ)」と献辞が記載されています。またリスト以外にも、ブラームスが『パガニーニの主題による変奏曲』を、カプリースとはフランス語で「気まぐれ」を意味する言葉で、音楽ジャンルの一つです。日本語では「奇想曲」、イタリア語では「カプリッチョ」と呼ばれています。この曲が出版されたのは作曲から10年ほど経過した1820年。もともと《24のカプリース》は別々の曲だったようですが、出版の際に24曲がまとめられました。しかし音楽ジャンルの一つと言ったものの、カプリースに使われる技法や形式があるわけではありません。むしろ形式に縛られない自由な様式で作曲された作品がカプリースに分類されます。そしてリストは1838年に《24のカプリース》の第1、5、6、9、17、24番と、同じくパガニーニが作曲したバイオリン協奏曲の一部をピアノ曲に編曲(大幅にアレンジ)し、『パガニーニによる超絶技巧練習曲』を完成させました。 それだけでも大変だというのに、この曲ではさらに弓をバウンドさせる奏法も組み合わせているため、まさにヴァイオリニスト泣かせであるということができるでしょう。このページでご紹介するのはパガニーニの「24の奇想曲第24番」です。パガニーニが繰り出していた超絶技巧の面影というのを感じることができるでしょう。その代表的なものとして、まずブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲Op.35」というのがあげられます。パガニーニは5歳の頃からヴァイオリンを弾き始めると、とてつもないスピードで成長し、13歳の頃にはもはやこの世の曲で弾くことの出来ない曲がなくなってしまったと言われています。ブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲Op.35」は全ての変奏において、パガニーニの原曲のメロディーを辿っているわけではなく、ブラームスが考え出した独自の旋律も組み合わせることで、少しロマン派の香りがするような編曲となっています。リストによる編曲とはまた一味違った雰囲気を楽しむことができるでしょう。様々な作曲家による編曲を聴き比べてみることで、音楽家それぞれの解釈の違いというのを楽しむことができるのではないでしょうか。そこで、今回はこの曲の魅力にも触れつつ、それを編曲した他の作曲家の作品についてもご紹介することにしましょう。第1章ピアノ編のページもご覧になっていた方は、あることに気づくことでしょう。Webonに掲載されている情報の正確性を求める為、著者・編集共に調査を実施しておりますが一部古いもの・正確性に欠けるものがある可能性があります。その際において仮に読者様に損失が発生してもWebon運営は一切の責任を負いません。パガニーニの「24の奇想曲第24番」の編曲(改編した曲)は、以前ご紹介したリストの「パガニーニ第練習曲第6番」の他にもあらゆる音楽家達によって生み出されています。ではピッチカート奏法とは何か。初心者の方にも分かりやすく解説していきましょう。この曲の編曲というのは今回ご紹介した以外にもたくさんあります。それは左手の「ピッチカート奏法」と「弦の上で弓をバウンドさせる奏法」を同じフレーズの中で交互に繰り出す変奏の部分です。パガニーニはイタリアのジェノヴァ出身の伝説的なヴァイオリニストです。そのため、パガニーニはその頃から自作の練習曲でその腕を磨くようになっていったようです。原曲よりもより一層ドラマティックな展開を楽しむことができます。実はこの曲をテーマとした曲を作っているのはリストだけではありません。ヴァイオリンにおいて左手というのは弦を押さえて音の高低を調整する役割を担っています。もう一つ有名な編曲として、音楽家・ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲作品43」というのが挙げられます。しかし、彼はもともと病弱で、40歳を手前にして体のいたる部分が蝕まれるようになっていきます。そして、誤った治療法を実践し続けてしまった結果、稀代の天才は57歳にしてこの世を去りました。パガニーニの「24の奇想曲第24番」はパガニーニが作曲した曲だけあって、当然のことながら非常に高度な演奏技術が求められる曲となっています。さて、今回はパガニーニの「24の奇想曲第24番」についてご紹介いたしましたがいかがでしたでしょうか。彼の演奏というのは文字通り超人的な域に達しており、悪魔に魂を売り渡したとも噂され、彼の足が本当に地面に着いているのかどうかを本気で疑い、彼の演奏会中、ずっと足元を見つめていた観客がいた、など多くの伝説が残されています。そうです、あのフランツ・リストの「パガニーニ大練習曲第6番」とほとんど同じメロディーを辿っている曲なのです。以前ご紹介した通り、この曲はリストの「パガニーニ大練習曲第6番」の元となった曲です。またWebonに掲載されている文章・画像(引用や無料素材でないもの)・ロゴ(無料素材でないもの)についての著作権はすべてWebon運営にあります。無断での転載・複製を禁じます。「史上最高のヴァイオリニスト」とも言われるパガニーニの生い立ちにも触れながら、この曲についてご紹介していきます。ちなみに変奏曲は当時「練習曲」としての意味合いが強かったので技術的に難しい曲が多くあります。このピッチカートですが、通常はヴァイオリンの弓を持つ右手で弦をはじいて音を出します。この曲は、オーケストラとピアノのために書かれた曲で、第1章でもご紹介したラフマニノフの「ピアノ協奏曲」に近い形態となっています。曲全体にパガニーニの原曲の旋律を用いていますが、変奏自体は全てラフマニノフのオリジナルとなっています。