アメリカ国民にとって王室のような存在のケネディ家。もともとはアイルランド系の大富豪の名家で、アメリカに渡ってからは政界や法曹界で活躍する者を多く輩出し、「ケネディ家以上に由緒正しい家柄はない」「まさしくアメリカン・ロイヤルファミリー」だと称されることが多い。その一方で「呪われた一族」としても知られている。99年には、ジョンの長男で、将来の大統領候補だと期待されていた弁護士のジョン・F・ケネディ・ジュニア(享年38)が、操縦していた軽飛行機で墜落事故を起こし、同乗していた妻キャロリン(享年33)、義姉と共に死亡した。11年には、エドワードの長女でTVプロデューサーとして活躍していたカラ・ケネディ(享年51)が、スポーツクラブで心臓麻痺を起こし急死。12年には、ロバートの第3子ロバート・F・ケネディJrから離婚を求められていた妻メアリー・リチャードソン・ケネディ(享年52)が、アルコール依存と薬物乱用に苦しんだ末に自殺。そんな「ケネディ家の呪い」を信じる人たちが、「また……」と心を痛める悲劇的な死亡事故が起きた。ロバートの孫で、人権弁護士として活躍していたメイヴ・ケネディ・マッキーンが、水難事故で命を落としてしまったのだ。ロバートの子どもたちも悲劇が相次ぎ、84年に第4子デイヴィッド・ケネディ(享年28)が、薬物の過剰摂取で急死。97年には、第6子で弁護士だったマイケル・ルモアーヌ・ケネディ(享年39)がスキー事故で死亡した。1963年に、第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディ(享年46)が暗殺され、68年には民主党の大統領予備選挙中だったジョンの弟、ロバート・F・ケネディ(享年42)も暗殺される。69年にはジョンの末弟で政治家だったエドワード・ケネディが自動車事故を起こし、同乗者が死亡。彼は64年にも飛行機事故に遭い、重傷を負っていた。73年には当時12歳だった長男エドワード・ケネディ・Jrが、骨肉腫のため右足の一部を切断するという不幸にも見舞われている。19年には、ロバートの孫シアーシャ・ケネディ・ヒルが、薬物の過剰摂取により22歳の若さで急死した。このように平均寿命よりもかなり前に命を落とす者が多く、「これは一族にかけられた呪いのせいに違いない」といった陰謀説がささやかれているのだ。 1929年にはリバーデールからニューヨーク市郊外のウエストチェスター郡ブロンクスビルへ引っ越し、6エーカーの広大な土地に屋敷を構えた。ソレンセンは、父ジョセフの期待に応えるためや兄の身代わりとして政治家になったなど、ジョンについてのちにそう語られることが多いが、彼の資質は政治家向きであり、不本意ではなく彼自身の理想と関心の表現であり、しかしそれにいたるまでの道のりは絶えず病気との闘いを強いられて、それがジョンに反抗心を植えつけながら練り上げられたものであったと述べている。この翌々年の1963年6月26日、ケネディは最初で最後となった西ベルリン訪問をした。市内のパレードでアデナウアー首相、ブラント市長とともに100万人の市民の歓呼に答え、ベルリンの壁近くの市庁舎前広場で30万人のベルリン市民を前に演説し、この演説は多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることとなった。またそれが困難さを伴うことも明確にした上で次のように呼びかけた。ケネディは結婚直後からその後2年間にわたり多くの脊椎の手術を受け、上院本会議を長期にわたって欠席せざるをえなくなった。ソ連に遅れをとり劣勢であった宇宙開発競争では、初の有人飛行でガガーリンが地球を一周に成功した直後に、挽回のための施策として1960年代の終わりまでに月に人類を送る計画を発表し、それは彼の死後もアメリカの大きな夢として推進され、1969年に実現した。しかし、ケネディ暗殺後に昇格したジョンソン大統領の時代に入ると、院内総務を歴任し議会との駆け引きを得意とした生粋の議会政治家であったジョンソンが1964-65年度会期中に公民権法や老齢健康保険法、住宅都市局の設置などを議会との折衝で次々と可決させた。ケネディが大統領に就任してホワイトハウスに入ってから、ホワイトハウスでの1日の過ごし方はほぼ以下の通りであった。ケネディとジャクリーン夫人はこの日、午前11時40分にテキサス州ダラス郊外のラブフィールド空港に到着(このとき、夫妻に渡されたのはダラスの象徴である「黄色いバラ」ではなくなぜか「赤いバラ」であった)し、ケネディ側近の依頼で防弾ハッチが取り外された(これが直接的にケネディの命を奪うことになった)大統領専用車に乗ってコナリー州知事夫妻とともに市内をパレードした。10月22日午後7時、これらの準備が整ったうえでケネディは演説を行い、キューバに攻撃用ミサイルが持ち込まれた事実と米国によるキューバ海上封鎖措置を発表。ソ連およびキューバ国民に対して、攻撃用ミサイルは何の利益にもならないと強調した。この演説は合衆国海外情報局(USIA)を通してスペイン語に訳され、中南米諸国に放送された。この演説の翌日、OASは全会一致で米国による海上封鎖措置の支持を決議した。ケネディの演説から2日後の朝に海上封鎖が発効し、潜水艦に守られていたソ連船18隻のうち16隻が洋上で停船・またはUターンし、翌日にはこれら16隻すべてがUターンした。この条約で大気圏内、大気圏外、海中における核実験は禁止された。この条約はその内容よりも、「核軍縮への第一歩としてのシンボルである」という点に重点を置かれていたため、実際にはこの条約は地下での核実験は禁止されていなかったために、その後も地下核実験はこれまで同様に行われた。さらに、この条約に調印しなかったフランスや、その後新たに核兵器を保有することとなった中国は、その後も大気圏内での核実験を行っていた。また通常兵器の削減もまったく考慮されていなかったために、ケネディは前述のようにベトナムでの軍事介入を続けたうえに、通常兵器に対する予算が削減されたわけでもないため、核兵器の製造や配備はその後も削減されずに継続された。このようなケネディ個人とケネディ家とマフィアとの深い関係は、大統領就任後もさまざまな形でついてまわっただけでなく、自らの暗殺の原因の1つとしてささやかれ続けることとなる。そして共産主義を激しく批判し、最後にまたドイツ語で締めくくった。ジャクリーンは父はフランス系のジョン・ブービエ、母はアイルランド系のジャネット・リーで、父ジョン・ブービエは株取引で財産を築いたが大恐慌で財産を失い、アルコール依存症となって母ジャネット・リーとはジャクリーンが11歳のときに離婚した。母はその後、裕福な株式仲買人でスタンダード・オイルの相続人の一人であったヒュー・D・オーチンクロスと再婚していた。名門ヴァッサー女子大に進学し、フランスのソルボンヌ大学に留学し、アメリカに戻るとジョージ・ワシントン大学に編入してフランス文学を専攻した。さらに、ケネディは黒人の選挙権に対する2つの南部の悪習「ポール・タックス」(投票するために支払う税金)と「リテラシー・テスト」(黒人を選挙から締め出すことを目的としたテスト)を撤廃させるよう努力し、ポール・タックスを廃止する法案を通過させ、この法案は合衆国憲法修正第24条となったが、リテラシー・テストを廃止する法案は上院を通過できなかった。なお、ケネディ夫妻は1956年にも女児を死産により失っている(夫妻はこの娘を「アラベラ」と名づける予定だった)。ケネディの好印象の理由の一つは、彼が着ていたスーツの色と言われる。演説のとき、ケネディは濃い色のものを、それに対してニクソンは薄い色のものを着ていた。当時のモノクロテレビに映しだされた画面では、ケネディは濃い色で力強く見え、反対にニクソンは薄いグレーの色で、印象が弱く見えたとされている。後にラジオで討論を聞いていた人は「(討論内容だけ聞く限りでは)ニクソンが勝った」という意見が多く、テレビで討論を見た人は「ケネディが勝った」という意見が多かった。ケネディは俳優のピーター・ローフォードのアドバイスを受けて、綿密にテレビ用のメーキャップをしたうえに、持病の治療のために服用した薬の副作用で肌の色が浅黒くなったために「日焼けしたスポーツマン」に見えた。それに比べ、ニクソンは直前に病気をしたため、病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず、「議論の内容が重要である」と言ってメーキャップを断り、さらに選挙戦の疲れも相まってやつれて見えた。さらに、照明の暑さから何度も汗をぬぐう場面もあり、これが有権者からは焦っている仕草とみられてしまった。これ以降、大統領選では両党の候補者によるテレビ討論会を行うことと、さらにメーキャップを行うことが定着化している。このエクスコムの会議には14 - 15人が集まり、おもな顔ぶれはジョンソン副大統領、ラスク国務長官、ボール国務次官、マクナマラ国防長官、ギルパトリック国防次官、マコーンCIA長官、ロバート・ケネディ司法長官、ディロン財務長官、スティーヴンソン国連大使、テイラー統合参謀本部議長、バンディ補佐官、オドンネル大統領特別補佐官、ソレンセン大統領顧問、アチソン元国務長官、ラヴェット元国防長官などであった。この席でケネディは当面する危険とこれに対処するあらゆる行動コースを即時徹底的に調査するように命じた。そして徹底した機密保持も命じた。この10月16日から13日間が歴史に深く刻まれ核戦争の寸前までいったキューバ危機の期間である。ソレンセンの著書ではこの16 - 19日までの96時間が午前・午後・夜間を問わず会議の連続であったという。その間に新しい空中写真の分析が進み、近距離用攻撃用ミサイルが配置された地点が6か所に上り、中距離用ミサイル(IRBM)用の基地にするために掘られた箇所が3か所見つかった。これより前の9月11日にソ連は声明を発表しキューバに対する如何なる軍事行動も核戦争を引き起こすであろうと警告していた。そしてメンバーが行動に移す可能なコースとして、まだ東西陣営が鋭く対立し、朝鮮やドイツ、キューバ、ベトナムで一触即発の事態が続く中で、自由を守る立場を就任演説で述べたケネディは、ここでまず次の一句から述べた。スティーヴンソン大使「ゾーリン大使にお伺いします。ソ連がキューバに準中距離及び中距離弾道用ミサイルを装備し、たった今も増強していることを否定するのですか」スティーヴンソン大使「あなたは今、世界世論の法廷にいるのです。イエスかノーでお答え下さい」ゾーリン大使「そんな検事のように質問されてもお答えすることはできない」そんなフルシチョフに対してケネディは、「西側の権利は放棄しない」と反論し、もしフルシチョフがその主張を実行に移せば「冷たい冬」となるであろうと警告した。これに対しフルシチョフは、「西側が東ドイツと平和条約を結ぶつもりがないのなら、今年中にソ連は単独で結ぶ」と伝え、ケネディを揺さぶった。しかしケネディは、「西ベルリンの自由を妥協の対象にはしない」と通告。この会談は明日にも戦争が起きそうな緊迫感を帯びていたという。当時、日本では「ソ連は将来のために現在を犠牲にしている。我が国は現在のために将来を犠牲にしている」とも訳されたが、このときケネディは、戦後の東西対立の時期にあって、やや停滞気味であった1950年代のアメリカの現状を見て、国民に現状維持に固執するのではなく新しい未来への先駆者となるように呼びかけたのである。ケネディはキューバへのゲリラ活動や空軍機による空中偵察活動をその後しばらく継続させたが、やがてこの偵察機がキューバにソ連が核ミサイルを持ち込んでいることを空中写真で発見し、米ソ関係に最大の緊張が訪れた。こうしてケネディは西ベルリン駐留軍を強化し、結局ソ連と東ドイツの間に平和条約が結ばれることはなかったが、この後もベルリンをめぐって米ソの緊張は続いた。この間に8月30日にソ連は突如核実験を再開している。スティーヴンソン大使「地獄の火がすっかり凍るまで待てというなら、私はここで返答があるまで待っていよう」フルシチョフは、この2年後の1964年10月14日に同志たちの裏切りで突然失脚させられてしまった。日本では東京オリンピックが開催中で国中が沸いていたときであった。なおアメリカは、このときにキューバのミサイル発射基地の建設の動きは見ていたが、本当に核ミサイルがソ連から運び入れられているとは考えていなかった。それはこれから起きる事態だと予想していた。しかし実際はこの時点ですでに核ミサイルが秘密裏に搬入されており、封鎖の動きに対抗してカストロはフルシチョフに核ミサイルの使用を呼びかけていたと、36年後にカストロとマクナマラが同席した懇談会の場でカストロが明らかにし、それを聞いたマクナマラは驚愕してもう一度聞き直す一幕があった。キューバ危機とは、すでに核兵器のうえでアメリカ、ソ連、キューバが踊り、計算違いが一つあれば核戦争に突入してもおかしくない事態であった。