もののけ姫で涙が出そうになったのはこのシーンだけですね。 「黙れ小僧!」このセリフにモロがこれまで抱えてきた全ての苦悩がぎゅっと詰まっている気がしました。 映画館で「もののけ姫」音響が別格 しかし、そのなかでただひとりアシタカだけが融和を目指していくのです。しかしながら、この解決方法は今思えばいささか強引に過ぎるとも思えます。直接的にはアシタカが手を出したことで彼は呪いを受けた。しかし、大きな観点から見ると、エボシが生み出した憎しみの連鎖を一身に引き受けているのが、全く無関係のアシタカであるという見方も出来ます。また、世界的にもグローバリズムが進行する前であり、近年騒がれている「若者の貧困」などもまだ顕在化していなかったように思います。そんなタタラ場をモロの一族が襲います。単身乗り込んできたのは『もののけ姫』サンでした。一方ではアシタカの持つ運命の理不尽さには今の人たちの方がより共鳴するかもしれません。現代において、伝統は合理性のものに軽視される傾向にあるかもしれませんが、それでもなお、日本人の精神性はこの多神教をベースに成り立っていると感じます。また『歴史と出会う』の中では網野善彦氏がエボシの出自もまた遊女なのではないかと推測されています。それは年金に代表されるような世代間での格差などもそうでしょう。アシタカは全てを見て、そしてどこにも属さないがゆえに、和平への道を模索していきます。シタカはここで、エボシは単純な悪人ではないことを実感するのです。もはや地球そのものの自己再生能力さえ敵わないほどの規模でその破壊は進んでいます。モロ曰く「人間てもなく、山犬にもなり切れない、哀れで醜い、かわいい我が娘」がサンなのです。その事をサン自信も自覚しているのか、アシタカの「そなたは美しい」の言葉に激しく動揺します。先日、『映画の名言100連発』って記事を書いていたら、やけに人生を語った名言が多いことに気づきました。 (そりゃ人生を簡潔に言...『もののけ姫』の製作時、鈴木敏夫プロデューサーはエボシを殺すことを提案しました。自然とどう向き合っていくのか。それは現代にはより増して深刻な問題になっています。一方で『もののけ姫』は宮崎駿監督自らが「解決不能な問題」と発言しているように、単純な善悪では現実は計れないこと、そしてエボシを殺してしまうと、「エボシ=悪」の図式の枠を超えられないことへの懸念があったのかと思います。しかし、アシタカを現代の若者として捕らえるならば、『もののけ姫』で描かれる自然もなんらかのメタファー(暗喩)であるはずです。確かにすべての生き物は他の生き物を殺すことなしには命を永らえる、生きていくことができません。そこでアシタカはエボシが山を切り崩し、自然を破壊しながら鋳鉄を行っていること、そしてナゴノカミの体内に入っていた礫がエボシが放ったものと知り、怒りを覚えます。その怒りに反応して、彼の呪われた右腕は剣へ手を伸ばし、エボシを殺そうとします。この時点ではアシタカもエボシを単純な悪とみており、かつ「呪いを解くためには殺してもいい」というある意味では自己中心的な考え方も見え隠れします。確かにエボシが死ぬとなれば、物語の尺もより短くすることができ、かつストーリーもよりシンプルでわかりやすい印象になったでしょう。歴史的な実際の区分はさておいても、『もののけ姫』は古代と近代その転換期を描いた作品だと思います。ただ、もののけ姫が公開された1997年という時代という意味の「現代」であって、アシタカに反映されているものも、1997年の若者像ということは注釈を入れておきます。自然を守るというよりも、むしろそれぞれの正義とエゴのぶつかり合いの方がよりリアリズムを持って迫ってきます。果たして再び首を手にいれたシシ神はその瞬間遂に倒れ、消滅します。幾重にも折り重ねられたそのメッセージや、宮崎駿監督の思考まで居っていくことは実質不可能なので、ここでは解説ではなく、個人の主観を含んだあくまでも考察の域に留めておきたいと思います。アシタカは戦傷者として倒れていたコウロクらを助けたことが縁でエボシ御前と彼女が治めるタタラ場へ足を踏み入れます。しかし、荒れ地には緑が宿り、アシタカの呪いは溶け、の病気も快癒します。アシタカは国を追われ、その瞬間からどこにも属さない者として生きていきます。この時代、庶民にとっての世界は自らが属するコミュニティを表しますが、国を追われたアシタカにとっては全てを相対化して俯瞰で見るという視点を手に入れたことになります。アシタカには確かに現代の若者像を反映した設定である一方で、確かなヒロイズムも持ったキャラクターです。当初『もののけ姫』のタイトルは『アシタカせっ記』の予定でした。タイトルのせいかポスタービジュアルではサンがメインですが、やはり主人公はアシタカなのです。ただ、そこにあるのは『一つ一つを丁寧に解決していくのはもはや不可能』という片面の現実ではないでしょうか。The Texas Chain Saw Massacre Leatherface 1/6スケール ABS&PVC&...そしてその爆風はタタラバも何もかもをすべて吹き飛ばしてしまう。憎しみの連鎖を分かりやすく表したものがたたり神ではないでしょうか。まだネットも未発達の時代であり、流行発信はテレビや雑誌、みんなが同じ流行を求めていました。その点からすると、「エボシが死ぬ」という結末は宮崎駿監督にとっては到底受け入れがたいものだったでしょう。また、もののけ姫の鈴木敏夫プロデューサーは、『生きろ。』という本作のキャッチコピーに関連して、バブルの崩壊や阪神淡路大震災、オウム事件などを例に挙げて、そんな世相のなかでこそ、より『生きろ。』というキャッチコピーの強さが際立つとも述べています。そんな中でアシタカはジコ坊という僧と出会います。僧侶の体を成していますが、実際は物事を影から操るフィクサーのような存在であり、朝廷(天皇)からエボシ宛に手紙を届けたり、またエボシに戦力である石火矢衆を手配したりと、飄々とした性格の裏で暗躍するしたたかさを併せ持っています。『日本初、博多発』のキャッチコピーに乗せられて(笑)、ドルビーシネマ、初体験してきました! 百道のマークイズにスクリーンXが出...その過酷で残酷な現実を『もののけ姫』の登場人物すべてが受け入れていると個人的には感じます。『普通なら女がタタラに入ると鉄が穢れると相当嫌がるものだがなぁ』今回はジブリ映画の中でも問題作となった『もののけ姫』について考察していきます。モロはサンについて「森を犯した人間が我が牙を逃れるために投げてよこした子」と述べており、またサン自身も自分の出自は人間であることに気づいていて、それを否定するかのように「自分は山犬だ」と激しく主張します。ナウシカでは単純な善と悪の二項対立の構図が強く、ある意味では非常にアニメらしい見せ方を採用した作品だとも言えます。そう考えてみると、公開から20年以上経った今では、『もののけ姫』は私たちにどう映るでしょうか。「ジョンQ~最後の決断~」は2002年のアメリカのヒューマンドラマ映画です。主演はデンゼル・ワシントン。アメリカの医療保険制度を...このあたりは後述するとして、次に『もののけ姫』に描かれる歴史観を見ていきます。ハッピーエンドの対極にあるバッドエンドの映画、たまに観たくなる時はありませんか? 今回は憂鬱な映画を観たくなるメカニズムを考察...本作の中世日本の歴史観は網野善彦氏の歴史観に強く影響を受けたものと言われています。字幕スーパーの「スーパー」っていったい何なのでしょうか。。。 最近は「字幕版」とかであまり耳にはしませんが、以前はよく...一市民が国同士の争いを止めるのが難しいように、ここにおいてはアシタカもまた一個人にすぎません。しかし、アシタカは個人としてそれをどうにか止めようと奮闘し、自ら渦中に飛び込んでいく。『もののけ姫』をごく表面的に観ていくならば、もっともわかりやすいメッセージの一つは自然との調和でしょう。アシタカを襲ったたたり神は元々は猪神であるナゴの守(ナゴノカミ)でした。しかし、エボシが撃った石火矢の弾を受けたことで、弾が内蔵を貫き、肉を腐らせ、ナゴの守を死に至らせたのです。そしナゴの守は各地で憎しみを集め、たたり神へと変貌します。タタラ場の男のセリフです、エボシが作り上げたタタラ場というシステムは極めて合理的で、かつ先進的なものでした。同様にこの視点を持ちながらそれを利用しようと画策したのがジコ坊です。その意味ではアシタカとジコ坊は光と影のような関係でもあるでしょう。ただ、アシタカは希望を諦めない一方で、それらを容易く裏切り続ける現実に苦悩し続けます。「もののけ姫はこうして生まれた」によると、劇中では明かされませんが、エボシ自身に人身売買された過去があると設定されています。たたり神は怒りや憎しみなど、憎悪の感情のメタファーとして描かれます。経済的な観点から言えば、もののけ姫公開から20年以上経った今、日本の名目GDPは諸外国に比べて著しい成長もなく、ほとんど横ばいで推移しています。エボシとサムライ、もののけ達の戦いに一切アシタカは関わっていなくて、彼が気づいたときにはすでにそうなっている。ではもののけ姫で描かれる自然はそのまま自然の意味しかないのか。他にも、タタラ場の女、トキの夫であるコウロクの職業は牛飼い。網野史観でいえば、牛飼いもまた社会のアウトサイダーと言える職業でした。もちろん、映画版のナウシカは作品世界全体から見た場合はまだ序章に過ぎない部分であり、ナウシカという作品全体を示した漫画版のナウシカは多くの価値観を含んでもいます。網野善彦氏は著作『歴史と出会う』の中で『もののけ姫』について感想を述べられています。僕は現代の文脈に置き換えるのなら『自然』を「伝統」と置き換えることもできると思っています。一つ一つを丁寧に解決していくのではなく、一度すべてを強制的にリセットするというストーリーはある意味では暴力的とすら呼べます。倭寇(13~16世紀の朝鮮・中国地方の海賊)の頭の妻にされるも、次第に組織を支配するようになったのち、頭を自らの手で殺し、明の兵器を日本に持ち帰ってきたとのことです。これは非常に興味深い構図で、いわゆる主人公が常に出来事の渦中にいて主体的に物語を進めていくというものとは一線を画します。他の事例では例えば幕末に黒船という「日本の外の世界」が現れてから逆に日本という国家単位の概念が庶民にも生まれたということにも似ているかもしれません。エボシにしてみれば、自然を破壊し、多くの生き物を殺していくのも自分達がいきていくためであり、それもまた自然の摂理であるということでしょう。それは理不尽に降りかかる時代による苦難を一身に引き受けなければならないという点で共通しています。サンもまた複雑なキャラクターです。その出自は森を犯した人間が山犬神であるモロに差し出した生け贄。サンにとって美しいとは自分とはもっとも縁遠い言葉であったはず。そしてサンの山犬というアイデンティティと、しかし人間という現実の矛盾はモロにさえ救えない問題でもありました。エボシから見ればアシタカの言葉など、青臭い理想論でしかなかったのだと思います。古来より日本には(八百万)の神がいると言われてきました。それはありとあらゆるものに魂が宿るという考え方です。※この記事はギャグ記事なので本気にしないでね 今回は名作ミュージカル映画「マンマ・ミーア!」を題材に劇中で明かされなかったソフ...もののけ姫はアシタカの住む村をたたり神が襲う場面から始まります。怪僧とも言えるこのジコ坊ですが、まさにアウトサイダーを象徴するような存在です。『もののけ姫』は「風の谷のナウシカ」から13年という宣伝文もありました。『もののけ姫』は非常に『ナウシカ』を意識しており、『ナウシカ』へのアンチテーゼとも言える作品として位置していたのではないでしょうか。宮崎駿監督は主人公のアシタカに現代の若者を反映させたと言います。明からの輸入品であった銃火器を自分達に合わせて独自に開発し直すなどの技術を有し、恐らくタタラ場の製鉄技術や設備、石火矢の開発能力などは争いが頻発する当時にあって近隣諸国は喉から手が出るほど欲しいものだったはず。今や日本を越えて世界で『怪獣』の代名詞となったゴジラ。 ゴジラがこの世に登場してから60年を超え、そして今なお新作が作り続けら...アイ・アム・レジェンド 公開版はネビルが治療のための血清作成に成功し、ダーク・シーカーズを道連れに自爆するという、英雄的に描かれるエン...21世紀に顕在化した若者の貧困は『もののけ姫』ではまだ描かれておらず、むしろ貧困に関しては「リアリティがない」とまで言われています。それに応えるかのように『もののけ姫』では、ほとんど農民と呼ばれる登場人物は出てきません。ホラー映画の主役になぜ女性が多いのでしょうか?皆さんはそう思ったことはありませんか? 長い間ハリウッドでは「女性を主人公に...1997年当時はコギャル文化であったり、逆に少年犯罪など、10代の若者が消費者のトレンドであったり、また10代ゆえの危うさなどにも改めて目が向けられた時代だったと感じます。その中で生きることは殺すことであり、シシ神はそのことの象徴だと論じられています。