オードリーはこの作品での演技により再びアカデミー賞にノミネートされ、アカデミー賞へのノミネートは実に4回目となっただけでなく、この「ティファニーで朝食を」は「ローマの休日」と並んで彼女の代表作となっていきました。ユニセフの親善大使としてオードリーが旅した国は、アジア・アフリカ・中南米を中心に50以上に上ると言います。一方で、オードリーは船旅でイタリア人の精神科医アンドレア・ドッティに出会い、当時オードリーが40歳、アンドレアが30歳であったにも関わらず、また、オードリーは離婚した直後にも関わらず、1969年1月18日に二人は結婚。1981年にはこのベン・ギャザラとコメディ映画「ニューヨークの恋人たちで再びタッグを組みます。70年代と80年代になると、オードリー・ヘプバーンは女優業から少しずつ遠ざかるようになります。翌年、オードリーはブロードウェイに戻り、舞台「オンディーヌ」でメル・ファーラーと共演。晩年になると、オードリー・ヘプバーンは恵まれない子どもたちのための慈善活動に専念するようになります。ただし、父のジョゼフはイギリス・オーストリア系だったこともあり、この時点でイギリス国籍も有することになります。ところが、この転身が功を奏し、1948年にオードリーはすぐにミュージカル「ハイ・ボタン・シューズ」のコーラスガールとしてロンドンで初めて舞台に立ち、その後も「ソース・タルタル(1949)」のコーラスガール、また「ソース・ピカンテ(1950)」では脇役を演じるなど、着実に実績を積んでいきました。1945年に第二次世界大戦が終われると、母と一緒にオードリーはオランダのアムステルダムへ移り、そこでソニア・ガスケルという名バレリーナの下でバレエを学び、当時のオランダにおいて将来を渇望されるバレリーナにまでなっていきました。またこの頃、実生活でのオードリーは夫のファーラーと別居状態にあり、1967年には正式に別居状態であることを世界に向けて発表。ロビン・フッドの晩年を描いた「ロビンとマリアン(1976)」ではショーン・コネリーと、スリラー映画「華麗なる相続人(1979)」ではベン・ギャザラと共演。オードリー・ヘップバーンの生涯と人生について詳しく見てきました。「ジジ」はフランスの作家コレットの本が原作で1900年頃のパリが舞台。十代の娘ジジが、大人の女性へと成長していく模様をコミカルに描いた作品です。しかし、残念なことに授賞式を待たずして彼女はこの世を去ってしまったのです。「ローマの休日」の成功後、オードリーは映画スターとして数々の名作に出演するようになります。1960年以降、ヘプバーンは実に多様な映画作品に出演しました。5歳からバレエを始め、アーム音楽院でさらに深くバレエを学んだことで、オードリー・ヘップバーンはバレエでのキャリアを模索し、追求したいと考えました。以後、アレック・ギネス主演の「ラベンダー・ヒル・モブ(1951)」や「若妻物語(1951)」といった映画への出演を重ねていきます。また、晩年は女優業からはほとんど手を引き、ユニセフの慈善事業に後半生を捧げたことでも知られます。ニューヨークで自由気ままに暮らすパーティーガール(ヘプバーン)が、ジョージ・ペパード演じる売れない作家と親交を深めていくという作品です。この記事では、オードリー・ヘップバーンの生涯と人生を知るために、簡単なプロフィールと共に、ダイジェストで歴史を追っていきたいと思います。「オンディーヌ」は、水の精オンディーヌが、ファーラー演じる人間の男性と恋に落ちるという物語で、痩身でしなやかな体格とバレエで培った動きを生かし、オードリーは叶うことのない恋に落ちてしまった妖精を美しく演じ切ります。それから2年ほどが経った1939年、第二次世界大戦が始まった頃に、再度母と共にオランダのアーネムへ戻り、大戦中はオランダのアーネム音楽院に通い、通常学科に加えてバレエを学びました。また、ロマンチックコメディだけでなく、オードリー・ヘップバーンはシリアスな映画にも出演しています。「パリから戻ったサブリナは、昔から恋心を抱いていたデイヴィッドと仲を深めようとしますが、次第に兄のデイヴィッドのライナスに好意を抱くようになっていく」というサブリナの成長を描いたロマンチックコメディで、オードリーは再びアカデミー賞主演女優賞にノミネートされました。しかしナチスがオランダに侵攻すると、オードリーと母エラの生活は困窮してしまいます。その名優の一人が、「ティファニーで朝食を」や「ローマの休日」で有名なオードリー・ヘプバーン。虫垂がんによって1993年1月20日、スイスのトロシュナの自宅にて息を引き取りました。享年63歳でした。さらに、彼女が始めた慈善活動は、息子達のショーンとルカによって1994年に建てられた「オードリー・ヘプバーン子ども基金」を通して続けられています。オードリー・ヘプバーンは1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで生まれました。女優として大活躍した彼女は、未だに多くの人々の記憶に留まり、多くの場面で名前が挙げられます。オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn, 1929〜1993年)とは、ベルギー生まれで国籍的にはイギリスの女優でファッションアイコンであり、そして慈善家。ヘプバーンは幼いころからその美しさと優雅さ、そしてエレガントな立ち振る舞いで有名な少女でした。また、その美しさのみならず高い演技力、女優としてのカリスマ性からハリウッド史上最高の名女優の一人に数えられ、1999年に公表された「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の中では最も偉大な女優50選のうち第3位にランクインされるなど、未だに多くのファンを抱える偉大な歴史的女優です。彼女はハリウッドにおける永遠のアイコンであるとともに、ハリウッド史のみならず世界の映画史上で最も多くのファンを抱えた名女優の一人と言え、さらに慈善活動家としても記憶されています。1935年に父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となって家族を捨てて家を出て行ったこともあり、同年には母の故郷であるオランダのアーネムへと移り、1937年には母と一緒にオードリーはイギリスの南東部のケントに移住し、そこで私立学校へ通い始めます。世界中の俳優や女優が目指すハリウッドからはこれまで、数多くの名優たちが誕生してきました。この作品でオードリーは、得意とする華麗な女性の役柄に戻り、主演ホリー・ゴライトリー役を演じました。翌年にはオードリーにとって二番目の息子となるルカが生まれました。そして1948年には、当時のイギリスバレエ界で活躍していたマリー・ランバートの下で学んでさらに実力を伸ばすために、オードリーはイギリスのロンドンへ渡ります。

オードリー・ヘップバーンの生涯と人生を見ていきましょう。彼女のプロフィールや歴史をダイジェストで追いながら確認していきます。世界中の俳優や女優が目指すハリウッドからはこれまで、数多くの名優たちが誕生してきました。その名優の一人が、「ティファ 2019年はオードリー・ヘプバーンの生誕90周年のアニバーサリーイヤー。更新される情報は少なくても、その人気は衰えるどころか、今も世界中のファンを魅了し、彼女の名前が忘れられることはありません。26回目の命日である本日2019年1月20日、そして5月には彼女の90回目の誕生日を迎えます。 先日、オードリーの次男、ルカ・ドッティ氏に面会する機会があった。その際、忘れられない言葉を頂いた。曰く、「皆さん、母としてのオードリーはどんなだったかとお聞きになります。でも、僕にとっての母は、日本のファンの皆さんが思う母と同じなんですよ」。実の息子の言葉だけに説得力がある。こちらが用意した大きな花束を手渡すと、「まあ、こんなことするなんて、あなた、きっと映画スターになるわよ!」と悪戯っぽく笑って、ドアの向こうに消えて行った彼女。その少女っぽい仕草とユーモアのセンスは、映画で観たサブリナやホリーそのものだった。永遠の妖精と呼ばれた奇跡の女優の伝説!オードリーが演じた代表作から11のキャラクターと、そのファッションや魅力、裏話をご紹介します!【後編6選】。(文・清藤秀人)晩年、ユニセフの親善大使としてエチオピアやバングラデシュ、ソマリアへと足を運び、飢えて痩せ細った子供たちをその手で抱き上げる様子を、メディアを介して世界に発信し続けたのも、スター・オードリーの知名度を使って人間・オードリーの切実な願いを伝えようとした結果。インタビュー中ずっと、ジバンシーの黒いアンサンブルスーツの裾から覗いていた長く、骨組みがしっかりした脚のフォルムと、ブルーがかった緑の瞳には痺れるような深みがあって、思わず質問を忘れてしまうほど危険だったけれど。そこには、スター・オードリーと人間・オードリーが見事に共存していたのだ。二度目は1987年。ユニセフの親善大使に任命された直後、正式なインタビューが許された品川プリンスホテルの1階スイートで。時間より早く現れたオードリーは、こちらの拍手に合わせて自分も拍手しながら笑顔で入室、したかと思うと、窓の外の白い花を発見するや否や、背伸びして狭い天窓から顔を出し、「あれクチナシよね?そうじゃない?」と、噂通り花好きを強烈アピール。永遠の妖精と呼ばれた奇跡の女優の伝説!オードリーが演じた代表作から11のキャラクターと、そのファッションや魅力、裏話をご紹介します!まずは、【前編5選】。(文・清藤秀人)その場に同席していた生涯最後の伴侶、ロバート・ウォルダース氏から「僕もここにいていいの?」と問われると、すかさず「勿論よ。むしろいて欲しいわ」と答える様子も、ラブロマンスのヒロインそのものだった。嘘ではない。本当に映画のイメージ通りだったし、スターにありがちな“意外な素顔”というのが見当たらなかった。1993年1月20日、まだ63歳という若さでこの世を去った女優オードリー・ヘプバーン。数々の名作に主演した当時も熱狂的な人気を誇ったオードリーですが、その死後、四半世紀が経とうとしている今もなお、世代を越えた人々から愛される奇跡的な女優として知られています。そんな彼女の魅力、偉大さとは何か?改めて探ってみましょう。(文・清藤秀人)1983年、初来日。ジバンシーのイベントに参加したほか、息子らと京都や奈良観光も楽しんだその際、「初めて女優としての名声を利用したわ」とは、けだし名言。ユーモアのセンスは相変わらず抜群だったし、生来が子供好きで、自らも飢えて死にかけた第二次大戦下に垣間見たユニセフへの感謝と共感が動機の根底にあるそのボランティア精神には、一点の曇りもなかった。ただ気持ちのままに行動しただけなのだから。女優としても、人間としても、自分自身に忠実に生きた63年の生涯は短かったけれど、白いキャンバスに絵の具で線を描くように、太く、真っ直ぐだった。そして、誰の目にも同じく、その姿は天使のように映り続ける。一度目は1983年。旧友、ユベール・ド・ジバンシーのデザイナーデビュー30周年を祝い日本で開催されたイベントにゲストとして招かれた時、会見場に設定されたNHKホールの通路を歩くオードリーは、まるで、年上の親友、ジバンシーにぴったり寄り添う甘えん坊の妹のようだった。では、素顔のオードリーはどうだったか?僕は幸運にも来日時の彼女と面会している。