それで、『これを “しむけんもんじゃ” と名づけていいですか』と聞くと、『ああ、いいよ。その代わり1個売れたら10円くれよな』と笑ってくれました。でも本人は、『こっぱずかしくて』と、1回くらいしか食べてないんです」自身の経営する飲食店で、「よく志村さんの誕生会が開かれていた」という、はるな愛「古くからの方・新しい方・芸能人・一般人と、いろんな方が来るんですが、志村さんはどんな人でも、ゲストが帰るときに『ありがとうございました』と頭を下げるんです」以前は、志村さんが気を許す飲み仲間も少なかったと、川上麻衣子は話す。「結婚願望は、あったのよ。だから『どんなタイプが好きなの?』って聞いたら『年は若いけど、精神的には40代ぐらいの』って。いねーよ(笑)」20代のころ、「志村さんとしょっちゅう飲みに行っていた」という片岡鶴太郎は、思わぬ出会いを生んでいた。「飲んでいる席で師匠がよく言っていたのは、『彼女や奥さんがいたとしても、自宅では誰にもさわらせない、入らせない部屋が必要だ』ということでした。「僕がボクシング始めちゃったでしょ。あれで、ダチョウ倶楽部とかとも、飲む機会がなくなって……。だから、彼らを志村さんに紹介したんです」「志村がうちに来たとき、私は銭湯に行ってたんですよ。そしたら私の妻と一緒に、わざわざ銭湯まで迎えに来てくれました。その後、2人で私の自宅でじっくりと飲みましたが、あれが最後でしたね……」志村けんさん(享年70)が逝ってから、7月7日で100日。あらためて、「喜劇王」の偉大さに感じ入っている人は多い。女優の川上麻衣子(54)は、「ひとりの時間をとても大切にしている人だった」と振り返る。「2月の段階では、そこまでコロナが騒がれていなかったから、『経済を回そう』じゃないですけど、銀座や麻布十番によく行っていたみたいです。僕も、行きつけの店で一緒になりました。でも、3月に入ってからは気を遣って、ほとんど来てなかったんです」志村さんには、「人のために」の意識が、つねにあったのかもしれない。自身を死に追いやった新型コロナウイルスの流行でも、まず最初に考えたのは “行きつけ” のことだったと、ある飲食店経営者が明かす。以前、居酒屋で働いた経験があるらしく、『もとからある材料でないとダメだよな、新しく買ってロスが出るともったいないもんなぁ』と考えて提案していただき、お豆腐・ニラ・豚肉・山椒と、豆板醤を入れたメニューができました。東京・門前仲町のもんじゃ店「三久」には、その名も「しむけんもんじゃ」がある。店主が、メニューの由来を明かす。志村さんと「竜ちゃん」ことダチョウ倶楽部・上島竜兵のあいだに、“師弟” のような交友関係ができた瞬間だった。そんな1対1の関係を深める一方で、毎年の「誕生日会」などでは、続々と人が集まってきてしまうことに、志村さんの「人のよさ」が表われていた。「照れくさそうに笑っているけんちゃんの顔は、すぐに思い浮かびますし、あの笑顔は一生忘れないと思います。寂しく思うことは悲しいことなので、寂しさは感じないかなぁ」「冗談半分で、『メニューを作っていただけませんか?』とお願いしたら、快く引き受けてくれました。入院したのは3月20日。その後、志村さんの顔をもう一度見ることはかなわなかった。小中学校の同級生の角田英光さんは、「3年前の正月、ふらりと会いに来てくれた」と遠い目をした。「師匠が45歳くらいのころは、可愛かずみちゃんと3人で飲むことが多かったですね。みんな独身で、しかも全員が恋人とうまくいっていなかった(笑)。みんなで文句を言いながら、誰かしらの家に行ったり、カラオケに行ったりして、朝まで。本当に、コアなメンバーという感じでしたね」モト冬樹(69)も、独特の “理想の相手” について聞いていた。「よく行く鉄板焼き屋さんにご一緒したときに、『明日の夜に食べるから、残りもの包んでいただけますか?』って。そう話すのは、タレントのはるな愛(47)。はるなの経営する飲食店で、よく誕生日会が開かれていたのだ。そんなふうに持って帰るんだ、と思って、私がふと『朝ご飯とか、どうしているんですか?』って聞いたら、『独り者だから自分で作るに決まってるだろ。味噌汁も作るし、全部自分で作るよ』って。意外でした」買っていただいたうち一頭は、『ミツノアジ』号。志村さんらしい名前で。馬は、一勝もできなかったんです。でも、愚痴・ぼやき・嫌味は、いっさい言わない。それどころか、『いい馬生まれました?』と、電話をかけてくれる人でした」「僕がママに、『今度、仲間2人と牧場を作るんだ』という話をしていたんです。すると、『自分もひと口乗せてくれないか』と言ってきたのが、志村さんでした。最終的には馬主になって、うちから馬を買いたいと。人に好かれ、人との「縁」も大事にしていた志村さん。所有競走馬のほとんどを生産した碧雲牧場の元代表・長谷川敏氏は、料理屋のカウンターでの出会いを述懐する。夫婦になっても玄関は別。できれば別の部屋で、お互いに信号をつけて、青信号のときに会うのが理想だ、と。『それは違う!』と、だいぶ言い合ったんですが、師匠のなかでは、そういう一線を引きたいと思っていたようです」 志村けんさん(享年70)が逝ってから、7月7日で100日。あらためて、「喜劇王」の偉大さに感じ入っている人は多い。女優の川上麻衣子(54)は、「ひとりの時間をとても大切にしている人だった」と振り返る。 「飲んでいる席... | 志村けんさん「家では味噌汁も手作り」人を愛し、独り身も愛した

「志村さんの入院のことはニュースで知って、情報が全然ないから、すごく心配しているんですよ。志村さんとは、俺がクレイジーキャッツに憧れて、渡辺プロに入ってコミックバンドをやっていて、そのときに志村さんも渡辺プロにいて、それからの長いお付き合いなんだ。志村さんは音楽も好きで、話が合って、若いときは一緒にレギュラー番組もやったね。自分の中では志村さんと年齢は1つしか変わらないけど、一番尊敬できる先輩。だから心配ですよ。だって、これで何かあったら……。絶対に戻って来てくれると思うけど、映画どころじゃないよ」その誕生日会のときにも、『映画出演よかったですね』と話したら、志村さんは『年齢が年齢で朝早くから遅くまではできないから、時間制限して撮ろうと思ってるんだ』って話をしていた。志村さんは、役者として素晴らしいのに自分のことをコントの人間だと思っているから、今まで映画やドラマにはまず出なかった。コント以外やりたくない。筋が通っている人で、職人なんだよね。前の『鉄道員』には高倉健さんに言われて出演したんだけど、今回、70歳で映画『キネマの神様』に主演すると聞いて、本当にうれしく思っていた。自分のことのようにうれしかった」「大御所になると誕生日パーティーにも『行かなきゃいけない』みたいな感じがあるんだけど、志村さんの誕生日会はみんなが来たくて来てるんです。みんな祝いたくて来ている。毎年、すごくいい雰囲気で和気あいあいとしてやっていて。志村さんの人望だと思うよ。この前の誕生日会ではお酒は控えていたね。ヘビースモーカーだったけど、(2016年に)肺炎になってからは完全にタバコも止めていた。ただ、『お酒を飲まないと寝れない。自分でも気を付けてる』と話していました。誕生日会では元気だったから安心していたんだけど。ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号6091713号)です。