甲冑を身に着けない裸形と、仁王のような肉体を思わせる威圧感による勇猛さを示すと同時に、たいへん目立つ鎧であったことが想像されます。胴前面には臍や乳首、あばら骨の隆起などを表現しており、独特の迫力を感じさせます。何よりもまず目を引くのが、兜に設えられた二本の角のようなもの。よく見ると、なんと「兎の耳」が付いているではありませんか!それは美学や実用だけではなく、「祈り」にも似たものであることも多く、武将たちの心情に思いを馳せるのも楽しみ方のひとつですね。かつて武人たちは、戦場においてその「武者ぶり」をアピールするという美学をもっていました。侍大将クラスの人物であれば、その存在と所在を知らしめるという現実的な理由から、「目立つこと」が必要でもあったでしょう。武人の身体を防護し、生命を守るために発達していった鎧兜。単純な防具としての機能だけではなく様々な装飾が施され、工芸品としての価値から美術として愛好する人たちも多いジャンルです。ところが、これにも深いわけがあるのです。兜の飾りには神仏に関係するものが多いのは周知のとおりですが、この大根、実は「大黒天」へのお供え物でもあるのです。武将の兜といえば厳めしい立物や、強力な神仏のモチーフなどが思い浮かびますが、かわいらしい兎の耳と武具というギャップに、ついつい驚いてしまいますね。兜の飾りには厳めしいものやかっこいいもの、威圧的なものや雅やかなものなどがありますが、中には「なぜこのデザインを選んだのだろう?」と不思議に思ってしまうようなものもあります。正確には「甲子(きのえね)」の日に二股大根を供物にするのが習わしで、大根=大黒天へとつながる信仰を表しているとされています。甲冑が発達したのは日本だけのことではなく、西洋でも騎士の身体を守る防具として、全身を覆うようなスタイルで完成されていきました。現在では七福神の一柱として縁起のいいイメージの大黒様ですが、「天」と名の付くものは本来古代インドの魔神が多く、やがて仏法の守護者となったという経緯をもっているのです。東京国立博物館所蔵の「仁王胴具足」が有名で、裸の肉体に見えるデザインを鉄で作り上げているという、不思議なスタイルの鎧です。鉄砲が戦場に導入されるようになり、従来の鎧では防ぎきれなくなった弾丸への防御に優れた一枚鉄板の南蛮胴は、やがてそのコンセプトと意匠を受け継いで国産の鎧にも採用されていきます。事例としては、2012年度の栃木県立博物館企画展「北関東の戦国時代―戦国の終焉―」に出展された、黒漆塗の兜に金色の二股大根の前立をあしらったものが有名です。大黒天も同様で、大黒とはすなわち「大暗黒」のことで、恐ろしい霊威をもった魔神として信仰されていました。これなら、戦国武将が兜飾りにするのも頷けますね。戦国時代の日本にも、交易によってそんな西洋騎士の甲冑がもたらされたことがわかっており、そのデザインは武将たちにも少なからぬ影響を与えました。一見するととてもかわいらしい兎耳のデザインですが、その実は深いいみがあるのですね。有名なものとして、日光東照宮宝物館蔵の徳川家康所用「南蛮胴甲冑」が挙げられます。これは輸入された西洋の甲冑を加工し、日本風の鎧として使用したもので当時の武人たちに広く受け入れられたスタイルとなったようです。また、「月に兎」の言い伝え通り、兎の兜には一緒に月がデザインされている例も多くあります。これは古代中国の伝説で「金烏玉兎」というように、太陽には烏が、月には兎が住んでいるとされたことから、兎=月への信仰とも関りがあると考えられています。しかし、己の身命を預ける武具に様々な飾りを施し、戦働きにおいてその武功を示すことは、敵味方を問わず自身の存在を強く印象付けるという効果も生み出したのです。胴体は面積が大きく、刀槍の傷を受けると致命傷になりやすいため、念入りに守るべき部位として鎧も京後に発達しました。ところが、鎧なのに一見するとまるで「裸」のままであるかのようなものが存在しています。そんななか、鎧兜にはとてつもなく巨大な飾りや、一見突拍子もないような飾りが付けられたものも無見受けられます。ですがどんなに奇抜なものでも、そこには意味や願い、そして信条などが込められていたのです。西洋と東洋の、不思議な調和が生み出される甲冑として、独自の美を感じさせるものです。兎の耳のデザインは文字通り「兎耳形(とじなり)」といい、原野を縦横無尽に駆け回るその俊敏さにあやかったものともいわれています。All Rights Reserved, Copyright © sengoku-his.com 2020 無断転載禁止しかし実は、兎の耳をあしらった兜飾りというのはいくつかの事例があり、単純に可憐な動物という位置づけとは異なるものだったようです。そのひとつが、なんと「大根」。花や歯朶などをあしらったものは目にしますが、身近で安価な食材として親しまれている大根は、武具の意匠として似合わないのではという気がしてしまいますね。鎧兜にはまだまだかなり奇抜なデザインがありますが、そこに込められた願いや意味を考えると、どれも切実なものであることがわかります。

威厳や地位を示すため 2.

明智秀満が名乗っていたとされる三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認されています。織田信長について!性格・年表、名言・兜などその激動の生涯を解説!天正9年(1581年)頃になると福知山城に翌年まで在城します。斎藤義龍とは?斎藤道三との関係性や死因、家紋やハンセン病について解説!豊臣秀吉(羽柴秀吉)について!死因・年表・性格、朝鮮出兵・子孫などその生涯を解説!戦いが始まると、すぐさま明智光秀軍は包囲されることとなり、明智光秀は坂本城へと落ち延びようとしました。しかし、落ち延びる途中、明智光秀は落ち武者狩りに遭い明智光秀は亡くなりました。しかし豊臣秀吉方の堀秀政に坂本城は包囲され、明智秀満は自害したとされています。この逸話は「明智左馬助の湖水渡り」として伝説に残されています。出自が未だ明確に分かっていない明智光満ですが、その生涯もよく分かっていません。本能寺の変では先鋒となって本能寺を襲撃したとされ、山崎の戦いで明智光秀が亡くなったことを知ると、救援のため坂本城へと向かいました。「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と『東叡山開山慈眼大師縁起』に記されていることから、天海は蘆名氏の出自で陸奥国で誕生したと考えられます。明智光秀が山崎の戦いで亡くなったことを安土城で知った明智秀満は救援のため坂本へと向かおうとしましたが、しかしその途中、大津で豊臣秀吉方の堀秀政と遭遇しました。そこで明智秀満は「広間の襖・障子・引手・釘隠しの取りつけについて、責任を持って丁寧に行うこと」といった指示を出していました。明智秀満が使用していた鎧兜は「南蛮胴具足」と呼ばれ、東京国立博物館に所蔵されています。しかし、同時に「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」、つまり室町幕府第11代将軍・足利義澄の子供であるといった説も記されているため、天海の出自については謎が多く残っています。豊臣秀吉方の堀秀政はきっと、琵琶湖に沈んでいくだろうと見ていたとされています。明智秀満はしばらく堀秀政の攻撃から防戦していましたが、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名品が無くなることを恐れ、これらをまとめると目録を添えて堀秀政の一族の堀直政へと送ります。明智光秀の重臣として活躍したとされ、「明智秀満書状」から明智光秀に非常に信頼されていたことが分かります。またどこで誰から誕生したのかも明確には分かっておらず、出自については様々な説があります。なぜ明智光秀が織田信長に対し謀反を起こしたのかは未だ分かっていません。しかし明智秀満は唐崎に上陸し、そのまま坂本城へと向かいました。明智光秀とは?家紋・城・死因、天海だという説や名言などについて解説!明智秀満が坂本城に入ったことを知った豊臣秀吉方の堀秀政はすぐさま坂本城を包囲しました。そんな明智秀満の生い立ちや経歴、兜や明智秀満書状、また天海との関係性について解説します。また2018年に発見された「明智秀満書状」から明智光秀から信頼を得ていたことが分かっています。明治時代、旧尾張藩士の阿部直輔が謄写校正した『恵那叢書』には、明智秀満の父・明智光安は美濃国明知城主・遠山景行と同一人物であると記されています。明智秀満軍の兵たちは次々と討たれてしまい、窮地に立たされた明智秀満は馬に乗り琵琶湖へと走りました。明智秀満は敗北した斎藤道三方についていたため、斎藤義龍に攻められ長山城は落城し、父・明智光安は自害しました。しかし、天正6年(1578年)10月、荒木村重は突如、主君である織田信長に謀反を起こします。本能寺の変とは?織田信長を討った黒幕は明智光秀?真実や場所などを解説!その出自や生涯は謎に包まれていますが、明智光秀が行った謀反(本能寺の変)では先鋒となって本能寺を襲撃したとされています。明智氏出身説では、明智光満は明智光秀の世話役であった父・明智光安に従っていたとされています。その際、明智光秀の謀反の決意を聞いた一同は黙っていたとされています。天海とは安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した天台宗の僧侶で、徳川家康の側近として政治に深く関わりました。荒木村重とは?妻のだしや子孫、黒田官兵衛との関係や謀反の理由を解説!2018年、三重県で5通の明智秀満による書状が発見されました。明智秀満は三宅出雲の息子、あるいは美濃の塗師の子、また備前児島郡常山の国人・三宅徳置の息子などの説があります。ですが明智光秀、明智秀満が天海であるといった説は否定されています。 明智秀満とは?兜や書状、天海との関係性や伝説について解説! 明智秀満は明智光秀の重臣として活躍した人物です。 その出自や生涯は謎に包まれていますが、明智光秀が行った謀反(本能寺の変)では先鋒となって本能寺を襲撃したとされています。 戦場で目立つため 3.