天台宗の開祖である「最澄」について知っていますか?最澄は「空海」と同じ時期に唐に渡り仏教を学びました。帰国後の二人は日本の仏教の礎となる平安仏教を代表する高僧となります。ここでは最澄の思想や生涯と、空海との比較、さらに天台宗について説明します。 二人の関係が切れてから、最澄は晩年まで論争にあけくれることになりました。徳一という人物との教理の解釈をめぐる論争です。その論争の決着はつかないまま、最澄は満身創痍で生涯を閉じました。二人の没後における最澄の「天台宗」と空海の「真言宗」の発展の様相には、また違った対照をみることになります。真言宗においては、空海があまりに偉大で完璧であったためか、後継者に恵まれず、その教義も空海以上に深められることはありませんでした。しかし天台宗においては、最澄が果たせなかった密教の教義を完成させるため、弟子たちが習得にまい進し、教理を飛躍的に発展させます。天台の教学は隋の智顗(ちぎ)が6世紀に確立したもので、『法華経(ほけきょう)』の教義を中心とします。法華経の教えは誰もが悟りを得ることができるという「一乗思想」の立場を取りますが、悟りを得られない人もいるとして、そのレベルによって教えを分けるべきだとする「三乗思想」の法相宗と論争を繰り広げました。前に説明した徳一は法相宗の立場でした。その一方で空海は高野山や東大寺に道場を開き、東寺も与えられるなど精力的に真言密教の「真言宗」を広げてゆきました。交流が途絶えてからの二人の歩みは対照的なものでした。最澄は天台の教義を中国から持ち帰り、さらに独自の思想や禅、密教などを総合させた日本の「天台宗」を成立させました。予想外だった密教の求めに応じきることができず、年下の空海に教えを乞うなど、密教における勝敗はついていましたが、その後の「天台宗」と「真言宗」の発展においては、その勝敗は逆転してゆきました。そのような二人のドラマとともに平安仏教は発展し、こののちの鎌倉新仏教が展開する礎となったのです。最澄が遣唐使として唐に渡った804年には、船は違いますが空海も留学生として遣唐使船に乗っていました。最澄はこのとき38歳で、すでに注目されていたエリート僧でしたが、31歳の空海は全くの無名の若者でした。最澄の天台宗は、中国の天台宗をそのまま伝えたのではなく、先に説明した「円・戒・禅・密」を統合した、「四宗合一(ししゅうごういつ)」または「四種相乗(ししゅそうじょう)」という思想が基本です。そして還学生(げんがくしょう:短期留学生)に選抜された最澄は、38歳のときに遣唐使として中国に渡り、天台の教義とともに禅や密教の教えを受けます。その期間は1年間という短いものでしたが、帰国後の806年に桓武天皇より天台宗が公認され、最澄は日本の天台宗の開祖となります。まずはじめに「最澄(さいちょう)」の生涯や思想について説明します。また最澄の弟子の円仁は、密教のあとに日本の仏教界を席巻する浄土念仏も取り入れるなどして天台宗を発展させ、比叡山は仏教の総合センターとなって繁栄してゆきました。空海は2年という短期間に、当時の仏典を修めるために欠かせなかった梵語を習得し、密教僧として名高い恵果に学び、恵果の後継者として指名されるなど完璧に密教をマスターして帰国します。その時、多くの経典や曼荼羅、法具なども持ち帰りました。天台宗の本山寺院である比叡山・延暦寺は平安仏教の中心地となり栄えました。その後、延暦寺は多くの名僧を輩出します。日本天台宗の基礎を固めた円仁、浄土宗の開祖である法然、浄土真宗の開祖である親鸞、曹洞宗の開祖である道元、日蓮宗の開祖である日蓮など、鎌倉新仏教の開祖や、日本仏教史で重要な功績を残した多くの僧が比叡山で修行しました。866年には清和天皇より伝教大師の諡号(しごう・おくりな)が贈られました。これが日本で初めて贈られた大師号でした。大師号とは、徳の高い高僧の死後、朝廷から贈られる名のことです。ところが帰国すると、当時、新しい仏教として注目されていた密教の呪術能力が求められることとなり、最澄は年下のライバルであった空海に身を低くして教えを乞うことになります。しかし、最澄が派遣した弟子が空海の弟子となって戻らなかったり、経典の貸し借りに関する意見の相違などによって二人の関係は途切れてしまいます。最澄が開いた日本の天台宗の思想は「円・戒・禅・密」を総合することでした。「円」とは円満な教えのことで、中国を発祥とする本来の天台の教理を指します。「戒」は戒律のことで、最澄独自の思想です。「禅」は禅の行法で、「密」は密教の教えです。「天台本覚思想(てんだいほんがくしそう)」は「本覚思想」ともいわれます。「本覚」とは、「本来の覚性」を意味し、一切の衆生には本来、仏性(悟りの智慧)を備えていることを意味します。この思想を表す言葉「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ」は、人間のみならず草木や国土にも仏性があるとします。そして天台宗の修行の特徴は「止観」にあります。心を静めて本来の静寂な状態に安定させることが「止」で、「止」によって安定した心で対象を観察することが「観」です。「止観」は、「止」という禅定だけでなく、「観」という智慧も重視するところを特徴とする瞑想法です。最後に最澄が成立させた日本の天台宗について説明します。天台宗は日本仏教の原点とされています。六根清浄とは、人間に具わった六根を清らかにするという意味です。「六根」とは、視覚や味覚などのからだの感覚である五感に意識を加えた6つの感覚器官のことです。覚悟を持った比叡山での修行は12年続きました。天台宗の開祖である「最澄」について知っていますか?最澄は「空海」と同じ時期に唐に渡り仏教を学びました。帰国後の二人は日本の仏教の礎となる平安仏教を代表する高僧となります。ここでは最澄の思想や生涯と、空海との比較、さらに天台宗について説明します。最澄(767~822年)は豪族の父のもとに生まれ、12歳のときに出家します。19歳のとき比叡山にこもり自省の書である『願文(がんもん)』を著します。そこには「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」に至らなければ山を下りないという決意が書かれていました。この思想はインド仏教にはなく、中国を起源として日本で特に発展した仏教思想であり、時代を経るごとに他の教理と結び付けられ、新たな解釈を生んでゆきます。すなわち浄土教などの、人間は本来、仏であるのだから修行する必要も戒律も必要なく、念仏を唱えるだけでよいというような独自の解釈です。797年には桓武天皇の「内供奉(ないぐぶ)」に選ばれ、また法華教の講義なども行うなど、エリートとして華々しく活躍します。「内供奉」とは、宮中の内道場に奉仕する官職のことで、全国から抜擢された高僧がその職務につきました。その一方で最澄は1年間と決められていた期間の中、おもに天台の教えを中心に学びました。禅や密教も学びましたが、とくに密教については十分に学ぶ時間がとれませんでした。 最澄の天台宗、空海の真言宗とは? 最澄の天台宗と空海の真言宗は、平安仏教を代表する2大宗派です。 都市型で政治と癒着したことが原因で腐敗した奈良仏教の反省から、平安仏教は人里離れた山岳地帯に寺院が築かれ、政治との距離が置かれました。 そして朝廷の許可を得て、留学を切り上げて帰国します。朝廷は許可はしましたが、あまりの早い帰国のため、809年まで平安京への立ち入り許可をしませんでした。その後、高野山金剛峯寺を開き、真言宗を宗派として確立し、823年に朝廷から宗派として認められます。また空海は弘法大師として民間に深く浸透し、仏教が日本に定着するために大きな役割を果たしました。2人が本拠とした、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺はその後の歴史で大きな役割を果たしています。延暦寺、金剛峯寺共に織田信長と敵対したことはよく知られている事実です。当時、遣唐使で唐に派遣され、帰国した人材は朝廷に重んじられました。帰国した最澄と空海もその後大きな仕事を成し遂げます。以上、日本の仏教を大きな足跡を残した最澄と空海について解説しました。天台宗と言えば比叡山延暦寺ですが、実はこの延暦寺のもととなる寺院は、最澄が唐に渡る前、788年に一乗止観院として比叡山に作られています。延暦寺として寺を名乗ることが許されるのは、最澄の死後、823年のことです。同じ時代に最澄と空海という2人がいたことは、奇跡と言えるかもしれません。どちらが欠けても、日本の仏教も違ったものになっていたでしょう。その後の歴史で、最澄の作り上げた仏教理論は多くの宗派を生み、日本の仏教文化の多様性に大きな影響を与えています。最澄は12歳で仏門に入り、僧になってから学問の道に入ります。 一方で空海は、大学寮(国の官僚を養成する機関)で学問を始め、そこで学ぶことに飽き足らずに19歳で仏門に入ったと言われています。唐に渡ったときには最澄は36か37歳、空海は30歳。年齢以上に立場の違いがありました。日本に帰国した2人はそれぞれに活躍を始めますが、この頃すでに交流があったと思われています。空海の平安京入京許可が許された背景には、最澄の口添えがあったと言われています。そして2人の交流が本格的に始まると、奈良時代から栄えている南都六宗を凌駕する勢いで、天台、真言宗は教義を深め、宗派として地盤を強固なものにしていきます。その結果、最澄がいる比叡山は仏教の総合大学のような形になります。鎌倉時代になると、鎌倉仏教と言われる6つの宗派が栄えますが、この6つそれぞれの宗派の祖となった6人のうち、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元の5人は、いずれも延暦寺で学んだ、あるいは修行経験があります。一方、20年間の留学予定であった空海は、長安(現在の西安市)の西明寺、青龍寺で修行をしましたが、青龍寺の恵果は空海が十分に学問を修め、修行を積んでいることから、すぐに密教の奥義を伝授します。最澄が生まれたのは766年、または767年、空海は774年に生まれたと言われています。2人が遣唐使として唐に渡ったのは804年。ここまでの人生に大きな違いがあります。当時の仏教は、学問としての性質が強く、僧になるということは学問の道に進むと言うことでした。唐に渡った1年後 、最澄は滞在中に書き写した大量の経典と共に帰国します。最澄はすぐ、桓武天皇から密教儀式の一つである、灌頂を行うように命じられます。そして翌年、天台宗を開くことが認められます。これは当時の宗派であった南都六宗(奈良時代から栄えている6つの宗派)に準じる宗派とされ、異例のことでした。資料によると、806年あたりから最澄は空海に経典を借りるようになります。印刷技術がほとんどなかった当時、そういったものは非常に貴重であり、持っている人に借りて書き写すというやり方が主流でした。そして812年に最澄は自分の弟子数人と共に、空海に弟子入りします。そのうち数人の弟子はそのまま空海のもとに置き、修行をさせます。空海は唐で密教の奥義を伝授、つまり、伝授のための「修行」をしています。唐で空海は、「修行」と「学問」をしているわけです。
その昔、最澄が開いた比叡山も、空海の開いた高野山も「排除」の山でした。 彼らのみならず、日本の仏教は奈良・平安時代を通じて、 権力者の政治体制の安泰を祈るのが役目でした。 大仏で有名な東大寺は、国家を護るために時の天子が造った寺です。 一方最澄から遅れて帰国した空海は 別のルートで密教を専門的に学んできました。 その密教によって当時無名だった空海の名が 天皇や朝廷に広まることになるのです。 帰国して10年ほど最澄と空海は交流が … 813年、最澄は空海に「理趣釈教」の借用を申し出ますが、空海はこれを拒否します。密教の本質は経典を研究するだけでなく、修行が必要であると空海が考えていたのがその理由とされ … 弘法大師は、奈良時代から平安時代になる時代の変わり目に現れ、中国に渡ってまだ体系化されていなかった密教を授かり、初めて体系化し真言宗を開きました。高野山に真言宗の本山、金剛峯寺を開いています。有名な京都の五重塔を造ったのも弘法大師です。書の達人でもあり「弘法筆を選ばず」「弘法にも筆の誤り」という2つの諺が残されています。社会事業にも活躍し、日本ではじめて庶民の学校を創り、日本初の給食、辞書を作ったといわれます。一節によれば「いろは歌」の作者ともいわれま …