『ひょうきん族』というのは、テレビの裏側まで見せる人工甘味料。 (TBS『新・情報7daysニュースキャスター』2020年4月11日) (以上引用) とはいえひょうきん族の登場は、幼い私にとってものすごい刺激だった。 笑いの中の新しさって、子どもは特に敏感と思います。 「これから」がたくさん詰まってる気がしたのですよ。 というわけでひょうきん族の主要メンバーをピックアップしてみます。 フジテレビ系列の番組で、 毎週土曜日20:00 - 20:54に放送されたお笑い番組でした。 1981年5月16日から1989年10月14日まで続きました。 オレたちひょうきん族 1981年から放送。 『オレたちひょうきん族』の制作秘話が明かされる 1980年、『the manzai』(フジテレビ系)にツービートや(島田)紳助・(松本)竜介、ザ・ぼんち、b&bらが出演すると、空前の漫才ブームが起きた。 ひょうきん懺悔室(ひょうきんざんげしつ)は、かつてフジテレビ系列で放送されていたバラエティ番組『オレたちひょうきん族』のコーナーのひとつ。 1983年10月1日秋のひょうきんスペシャルより放送 … オレたちひょうきん族について 『オレたちひょうきん族』 オレたちひょうきんぞく. (志村けん『変なおじさん【完全版】』1998→2002年/新潮文庫)※『8時だョ!全員集合』では楽屋落ちがなかなか成立しない状況にあったが、週刊誌ネタにもなったいかりや長介のゴシップをネタにしたり、「ピッカピカの一年生」などCMをパロディにすることは見られた。80年代に生まれたこうしたテレビ空間は、その後も00年代いっぱいまで30年ほど延長されていくことになる。振り返ると、1983~84年は日本のポップカルチャーにとって大きな転換期だ。ファミコンが発売され、『週刊少年ジャンプ』の部数は増え続け、そして「新人類」と「おたく(オタク)」という言葉が生まれた。ファミコン・ジャンプ・フジテレビが、当時の男の子たちにとっての3点セットだった。『8時だョ!全員集合』は、志村けんのブレイクによって70年代後半を駆け抜けた。“土8戦争”とも呼ばれた、フジテレビ『欽ちゃんのドンとやってみよう!』との視聴率対決にも勝った。当時は、メディアの発達とともに、日本のポップカルチャーが爛熟期に突入し始めた頃だ。ファミコンの「裏技」とテレビのNGを楽しむ感性はとても近しい。メディアの構造自体を楽しむ、受け手の複雑な読解が成立していった。筆者は小学2年生だった82年頃から、『ひょうきん族』を観る機会が増えていた。学校で話題となるのも、ビートたけしや明石家さんまのことばかり。『ひょうきん族』の新しいお笑いは、ドタバタコメディを貫く『全員集合』を一気に古臭いものに感じさせた。変化が訪れるのは、80年代に入ってからだ。フジテレビは1981年5月から土曜夜8時に『オレたちひょうきん族』をぶつけてくる。漫才ブームで大活躍していた東西の芸人を集めた番組だ。これによって、ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、山田邦子などが大ブレイクする。別ものの笑いであると認識しながらも、創り込んだコントを続ける志村への憧憬と尊敬の念をずっと抱いていたことをうかがわせるエピソードだ。『だいじょうぶだぁ』や『バカ殿』の特番だけでなく、フジテレビでは96年から亡くなるまで深夜の30分枠でコントを続けた。文化人や俳優の道を進むこともなく、「おもしろビデオコーナー」はやっても、終生コントだけはやめなかった。まさに職人としての生き様だ。その魅力は、“ギョーカイ”的なテレビの内輪空間にあった。パロディを理解するには他番組の知識が必要となり、スタッフの登場もテレビ業界への理解が要求される。それは、複雑なテレビ空間の読解のうえに成立するものであり、『全員集合』の単純なドタバタコメディとはかなり質が異なるものだ。とくに、とんねるずの存在は大きかった。ネタはパロディと楽屋落ちばかり。視聴者の多くは、自分がギョーカイ人のひとりとなった気分でその世界に沈溺していった。視聴者のテレビ参加、より具体的にいえば“素人いじり”は、70年代の萩本欽一を経て、80年代には『ひょうきん族』や『元気が出るテレビ!!』、『ねるとん紅鯨団』とテレビでは一般的なものとなっていった手法だ。「当時はまだビデオデッキが普及していなかったら、観ていなかった。『全員集合』は生放送だし」と、たびたびテレビ番組で話していたと記憶する。『ひょうきん族』の特徴は、パロディと楽屋落ちをふんだんに盛り込んだことだ。語弊を恐れずにまとめれば、『8時だョ!全員集合』はローコンテクストで“演芸的”、『オレたちひょうきん族』はハイコンテクストで“テレビ的”だったのである(※)。その後、テレビ空間とギョーカイを徹底する『ひょうきん族』的な魅力は、『天才・たけしの元気が出るテレビ!
!』(1985年開始)や『とんねるずのみなさんのおかげです』(1988年開始)でさらに拡張されていく。一方で、ビートたけしは『全員集合』についていろいろ思うところがあったようだ。1974年にザ・ドリフターズに正式加入した志村けんは、76年に「東村山音頭」でブレイクする。これによって『8時だョ!全員集合』はますます子どもたちの喝采を受け、大人たちからは眉をしかめられていった。しかし、80年代に入ると『全員集合』に強力なライバルが登場する──。われわれは、自分たちの原風景である志村けんの死に大きなショックを受けている。と同時に、うしろめたさを抱えている。あのとき、視聴者の多くは志村けんを見捨ててしまった。ビートたけしの喩えを使えば、刺激的な人工甘味料の中毒になっていった。ああ、志村けんが死んでしまった。心のなかにぽっかり穴が空いてしまった──。そして1985年9月、『全員集合』は最終回を迎える。その頃、視聴率は15%前後を推移していた。(TBS『新・情報7daysニュースキャスター』2020年4月11日)こうしたこともあり『ごきげんテレビ』は大ヒットする。一方で、ビートたけしの不祥事による出演見送りなどもあり、『ひょうきん族』の人気は低迷していく。そして1989年10月、番組に幕を下ろすこととなる。Facebook で「いいね」を押すと、似たようなストーリーをご覧いただけますいかりや長介は、『ひょうきん族』収録中のビートたけしとばったり出会ったことがあるという。そのときたけしに「手ェ抜いて適当にやってますから」と照れくさそうに挨拶されたという(前出『だめだこりゃ』)。たけし軍団を作ったときに、志村は「何をしたいの?」とたけしに聞いたという。すると「ドリフみたいにきちっと台本をつくってコントをしたい」と返したという(前出『変なおじさん【完全版】』)。志村けんは年を取らなかった。テレビのなかで常にコメディアンとして、さまざまなキャラクターを演じ続けた。だから、いつも当たり前のようにコントを続けていた志村が突然いなくなるなど、まるで想像できなかった。『全員集合』と『ひょうきん族』が本格的に視聴率で激しく争うようになるのは83年に入ってからだ。この年、両者は視聴率20%前後で推移し、『ひょうきん族』が上回ることも増えていく。この頃、20時台の前半は『全員集合』のメインコントを観て、後半は『ひょうきん族』の「タケちゃんマン」にチャンネルを替える流れもできていたという話もある。結果的に、志村けんは『ひょうきん族』にリベンジしたことになる。しかし、本人は周囲のそうした見方にはあまり関心がなかったようだ。当時のことを志村はこう振り返っている。メインはコントだが、人気だったのは志村が発案した「おもしろビデオコーナー」だった。ホームビデオが普及し始めていた当時、視聴者からの投稿ビデオを紹介するコーナーだ。いまでこそYouTubeによってこうした動画は珍しくはないが、当時は世界的にももっとも早く、その後外国のテレビ局に企画フォーマットが広く販売されていった。いま感じるのは、やはりうしろめたさだ。あのとき『ひょうきん族』に心を奪われてしまった過去だけでなく、志村の存在を自明のものとしてしまっていたことについてもだ。志村けんは、ライバルである『ひょうきん族』について多くを語っていない。一方、ドリフターズは『全員集合』でも『ドリフ大爆笑』でも手を出さなかった。にもかかわらず、志村けんは80年代のテレビ状況に積極的にアジャストしていった。こうして土曜の夜8時も大きく変化した。当時、小学生だった自分はこの変化をリアルタイムに経験した。視聴者としてその潮流を大いに左右した張本人だ。『全員集合』の終了後、3ヶ月のインターバルを挟んで、TBSは同じ枠で『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を始める。1986年1月のことだ。ドリフターズの人気メンバーである加藤茶と志村けんのみによる新番組だ。つい最近、志村けんの訃報に触れたビートたけしは、以下のように語った。たとえば「タケちゃんマン」や「ひょうきんベストテン」はパロディであり、「ひょうきん懺悔室」はNGシーンのコーナーだ。横澤彪プロデューサーなどスタッフも多く出演し、女性アナウンサーにアイドル的な人気が出るようになるのも、この番組からだ。「それしかできない」とは、謙遜でもあるのだろうが、自負でもあるのだろう。81年は『全員集合』は視聴率が30~35%を維持していたのに対し、『ひょうきん族』は10%台前半をうろうろし15%を超えることをなかった。はじめて『全員集合』を上回ったのは、番組開始から1年5ヶ月が経過した82年10月9日のことだった。 No reproduction or republication without written permission.当時の土曜8時といえば、最高視聴率50.5%を記録した『8時だョ!全員集合』(TBS系)が圧倒的人気を誇っていた。掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。「『THE MANZAI』で有名になったツービートや紳助・竜介さんたちを起用して、お昼の『笑ってる場合ですよ!』が始まりました。この番組が成功して、プロデューサーの横澤彪(たけし)さんを筆頭に、同じメンバーで『ひょうきん』を担当することになったんです」ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号 6091713号)です。「豪華なメンバーに見えますが、ビートたけしさんも明石家さんまさんも、今のようにビッグではありません。最初は上層部から『番組のメインになる顔が足りない』と忠告されました。でもメインを入れたら、その人の番組になってしまう。いずれ番組の顔になっていく才能ある演者とチャレンジしたかった。視聴率が悪ければやめればいい、くらいの勢いで始まりました」「ドリフは“横綱”ですから、勝とうなんて思いませんよ。ただ、せっかくやるからには、存在価値だけは認めてもらいたいと考えていました」(三宅氏)