ライフ. 大和が戦いの最前線に立ったのは、二年後の昭和十九年六月のマリアナ沖海戦だ。だが、この時も大和は主砲を発射したものの、敵の攻撃が大和ら前衛部隊ではなく、後方の空母部隊に集中したため、力を発揮することなく終わった。© Shogakukan Inc. 2020 All rights reserved. 戦艦大和の元乗組員「八杉康夫さん」死去 目前で上官が割腹自殺、名作のウソを指摘…語り部としての功績 国内 社会 2020年1月21日掲載 八杉康夫氏(撮影・粟野仁雄)( 他の写真を見る ) No reproduction or republication without written permission.大和の元乗組員十七人とお会いし、その中には沈没時にあの重油の海から生還した方も十四人いた。大和はなぜ沖縄への水上特攻を敢行し、兵たちはどう戦い、そして生還者は、なぜ生き残ることができたのか。長い間、私が知りたかったことを老兵たちは詳細に証言してくれた。この時、日本はフィリピンの東方海上に空母部隊を囮にして米主力艦隊を引きつけ、空白となったレイテ湾に大和ら水上部隊が突入して敵輸送船団と陸上部隊の一挙殲滅をはかるという奇策に出た。それは、当時動員しうる艦船をすべて投入した作戦だった。私は『太平洋戦争 最後の証言』シリーズの執筆にあたり、最前線で戦った百人を超える老兵たちに取材をさせてもらった。その中には、戦艦大和の生還者も含まれている。掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。大和は、昭和十九年十月二十三日から二十五日にかけてのレイテ決戦でも大いなる“悔い”を残している。ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超える生還した兵士たちを全国に訪ね、取材した『太平洋戦争 最後の証言』(小学館刊)。三部作の完結編となるのが「大和沈没編」である。門田氏は大和の“航跡”についてこう記している。大和に乗り込んでいた三千三百三十二人のうち生還したのは、一割にも満たないわずか二百七十六人に過ぎなかった。大和が呉の海軍工廠で起工されたのは、昭和十二年十一月四日である。最高の軍事機密だった大和は、その後、四年一か月という歳月をかけて、昭和十六年十二月に竣工した。大和の初陣はミッドウエー海戦だ。昭和十七年六月、聯合艦隊司令長官・山本五十六が座乗した大和の初陣は未消化のまま終わる。戦場となった海域から五百キロも後方にいた大和が海戦に参加しないまま、日本は惨敗するのである。ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号 6091713号)です。戦後七十年近い歳月が過ぎ去り、生き残った乗組員も極めて少なくなった。大和は、レイテ湾突入部隊の中核となったが、三日間にわたる激闘の末、栗田健男長官が土壇場でレイテ湾突入を中止。敵の護衛空母こそ屠ったものの、本来、企図した戦果を挙げることはできなかったのである。破竹の勢いを続けていた日本は、この戦いで空母四隻が沈没し、戦死者三千五十七人を数え、熟練の航空搭乗員が百十人も命を落とす痛恨の敗北を喫した。優れた傍受能力を持っていた大和が後方にいたため、南雲忠一中将が率いる空母部隊は敵の無線を傍受できないまま急襲を受け、壊滅。太平洋戦争の帰趨を決したと言ってもいいほどの痛恨の敗北だった。 No reproduction or republication without written permission.待遇でも『大和』は優遇されていました。士官の夕食は洋食のフルコースで、ステーキも出た。アイスクリームを食べられるのは『大和』だけで、他の船からも“大和ホテル”だと言ってアイスクリームを食べに来る乗組員がいたほどです」(深井氏、以下「」内同)主砲の46cm砲はいうまでもなく世界一ですが、私が指揮した15.5cm副砲も優れていた。砲弾の初速は毎秒920mと世界最高クラスで、命中精度も極めて高かった。艦内は冷暖房完備。艦橋はビルのような高さでしたが、士官や伝令などはエレベータを利用できた。副砲長は艦の序列では上から5番目です。『大和』の乗員約3300名のうち250名が私の部下でした。掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号 6091713号)です。「『大和』は遠くから見るものであって、自分が乗るものとは思ってもいなかった。いざ乗船してみると、その大きさに驚くばかり。なかは迷路のようで、艦の後方に行くとどこにいるのかわからなくなるので、そんなときは階段を上って甲板に出て、艦橋を見上げて確認しました。『大和』は間違いなく世界一の艦だったと思います。今後、これ以上の艦は建造し得ないと思っていたし、当時のすべての米艦船より優れていた。進路の指示をした時は足が震えるほどの緊張を感じました。漁船をよけようと思って『取舵15度』と指示しても、艦が大きいから全然曲がらない。いざ曲がり出して舵を戻しても、今度は元に戻せない。どうしようかと思いましたよ。深井俊之助氏は、大正3年生まれの104歳。部屋の中を杖もつかずに歩き、座る姿勢は背筋がピンと伸び、驚くべき記憶力で理路整然と語る。 武蔵(むさし:当時は旧字で武藏と表記 )は、大日本帝国海軍の大和型戦艦の2番艦 。 艦名は武蔵国から因んで命名された。 この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目にあたる 。 大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦でもあった。 戦艦大和会は、戦艦「大和」乗組員の志に対し、追悼式や行事等を行い、鎮魂の慰霊、威勲の顕彰、遺族の思い、造船技術等を、後世に伝承していくことを目的としています。 深井氏は戦前、海軍の通信技術者だった父親の影響から海軍兵学校に入り、終戦まで戦艦乗組員として活動した。そして、いくつかの艦を乗り継ぎ、昭和19年3月、少佐として世界最大と謳われた戦艦「大和」の副砲長を命じられた。 帝国海軍の軍艦の乗組員の階級と指揮系統についてご教示ください。最高責任者は艦長だと思いますが、以下の階級はどうなっていたのでしょうか?また指揮系統についてですが、攻撃の最終判断は艦長が下すものだと思いますが、様々な意見を レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ方、コレクション情報など調査に役立つ情報を公開しています。 深井氏は戦前、海軍の通信技術者だった父親の影響から海軍兵学校に入り、終戦まで戦艦乗組員として活動した。そして、いくつかの艦を乗り継ぎ、昭和19年3月、少佐として世界最大と謳われた戦艦「大和」の副砲長を命じられた。© Shogakukan Inc. 2020 All rights reserved. 戦艦大和会とは - 戦艦「大和」は、呉海軍工廠において、当時日本の持てる限りの最高の科学技術と「ものづくり」の力を結集して、史上最大の戦艦として建造され、昭和十六年十二月十六日に竣工しまし … 戦艦大和乗組員 3332人の内生還したのは276人だけだった 2012.04.28 16:00 週刊ポスト.