ところが、この宴席で光秀が出した料理の魚が腐っていたため、信長が怒り狂い、2日間だけで光秀の馳走役を解任して、お前は秀吉の中国攻めの援軍にさっさと行ってこい! と命じたというエピソードがあるのです。『了山』で供される「饗応膳」では、鶴や鴫はかしわで代用、また品数を抑えるとともに、現代人にはあまり好まれない鯉は汁にして食べやすくしています。饗応膳は4日前までの要予約(毎週、水、木、金の3日間のみ)。一度に対応できるのは4名から最大20名までと人数も限られています。光秀は丹波一国を信長からもらい、織田軍の畿内方面司令官みたいな地位についています。現代社会でいうと、取締役本部長が、社長からグループ会社の社長の「接待役」を命じられた感じ? 思わずムッとしちゃいそうです。あるいは部下に丸投げするかも。© 2018 Kodansha Ltd. All rights reserved.本当にそんなことがあったんでしょうか? それはどんな料理だったんでしょうか?安藤氏によれば、献立のとおりにすべて再現したとすると、現代の私たちの舌では相当に塩辛く感じるはずだとか。食物保存のために塩が多用されていたことも一因のようです。また、当時は醤油が普及しておらず、刺身はわさび酢、生姜酢、蓼酢(たです)など、「酢」で食べられていたそう。秋篠宮家の眞子内親王も宿泊したことがある『了山』は、岐阜県可児郡と瑞浪市の境、鬼岩温泉にあります。可児市には明智光秀が生まれ育ったとされる明智城もありますから、このあたりには「光秀の故郷の味」が残っているともいえるでしょう。疑問のふたつめは、「なぜ、選ばれたのが光秀だったか?」ということです。家康の監視! なるほど、それは並の大名でつとまるわけがありません。もちろん、ここで立派に務めあげて出世競争のプラスにもなるようにと、光秀は大いに気合をいれたようです。この疑問には学習院大学の望田朋史氏が、こう答えてくれました。学界でも珍しい「馳走役」を専門とする研究者で、「公儀馳走役の研究」で2019年徳川奨励賞を受賞しています。1582(天正10)年3月、織田信長は長年の宿敵だった武田家を滅ぼします。信長は武田攻めに尽力した同盟者・徳川家康に駿河国(現在の静岡県)を与え、家康はその御礼をしに安土にやってくることになりました。5月のことです。このとき家康のもてなし役=「馳走役(ちそうやく)」を命じられたのが、明智光秀でした。5月15日からの3日間、家康を迎えた安土城では贅を尽くした饗応が繰り広げられます。なるほど。部下がお膳立てをして、偉い人はそこに座っているだけ、というわけではないんですね。冷蔵庫もクーラーボックスもない時代。「食材輸送」は一番の贅沢でした。家康は静岡のものを、信長は愛知や岐阜のものを食べていたわけで、地元で採れないものを食膳に載せることに光秀が注力したのも当然かもしれません。なんでも、当時の武士のたしなみのひとつが「包丁」だったんだとか。明智光秀の盟友と言われた教養人・細川藤孝も包丁の達人で、包丁と真魚箸だけを使って、鯉の身に触ることなくさばくことができたという逸話が残っています。が、それが結果的にあだになったのか……。「家康饗応膳」の豪華さを前にすると、歴史の謎をあてどなく考えてしまうことでしょう。ここでちょっと寄り道して、現代の私たちが疑問に思うことを調べてみました。ひとつめが、「光秀みたいな偉い人が、家康のもてなし役なんてするものなの?」です。大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀にまつわるエピソードは数々ありますが、これは最も有名な逸話のひとつといってもいいでしょう。「本能寺の変」のきっかけになったとされる出来事です。満座の中で恥をかかされたと思ったのか、あるいは信長軍団のなかで、もはや出世の見込みがなくなったと思ったのか……いずれにせよ、このエピソードどおりなら、「信長怒る→解任されて亀山に戻り、同僚の秀吉の中国攻めを手伝うために出撃準備→中国地方でなくて方向を変えて本能寺襲撃」ということになるわけで、「饗応失敗」は本能寺の変の理由としては、いかにももっともらしく聞こえますよね。この半月後、6月2日未明に光秀は突如、京都の本能寺にいた信長を襲いました。こう話すのは、2019年秋から「天正十年五月 徳川家康饗応膳」の料理再現を始めた日本旅館『了山』の料理長、安藤和範氏です。再現のために時代考証の先生について一から勉強し、おかげでその再現料理は、『麒麟がくる』時代考証の小和田哲男先生からも合格点をもらったそう。

本能寺の変「麒麟が来る」2020年nhk大河ドラマ . 2020年nhk大河「麒麟が来る」のクライマックスになるだろう本能寺の変。 明智の三日天下と揶揄されてきたこの歴史の転換は、一夜にして織田を滅ぼすも …

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」。 6月21日放送の名場面スペシャル「国盗り物語」放送後の感想まとめ記事です。 視聴者の感想 前回(独眼竜政宗)の感想はこちら。 次回(名場面スペシャル・利家とま … 大河ドラマ『秀吉』が採用した説は? 本能寺の変を原因をどう描いた? 大河ドラマ名場面スペシャルで、必ず登場する本能寺の変。どの作品も、謀反を起こした要因が違うので、大きな見所となっている。大河ドラマ『秀吉』は面白い説を採用していた。 寺の中は閑散としており、本堂に入っても誰もいなかったとあります。そして桂川を全軍が渡ったことを確認した後、あの有名な言葉が発せられたのです。2020年NHK大河「麒麟が来る」のクライマックスになるだろう本能寺の変。織田信長、信忠親子を一気に攻め落とせる千載一遇のチャンス到来です。明智の三日天下と揶揄されてきたこの歴史の転換は、一夜にして織田を滅ぼすものでした。この時光秀が詠んだとされている句が、後の世で逆賊とされた理由に利用されました。野口城主・西尾光教に渡された手紙が現存しており、その中に「信長父子の悪逆は天下の妨げ」とあります。「馬の沓を脱がせるべし! 徒歩のものは新しい草鞋に履き替えるべし! 鉄砲隊は火縄に火をつけ、一尺五寸に切った火縄の火が消えぬよう逆さに持つべし!」こうした手紙攻勢を4日間続け、自分に味方するよう要請しています。声に気がついた信長が森蘭丸に何事だと問い、蘭丸が外に桔梗紋の旗印を見つけて、ようやく明智軍であることが判明したのです。信長を主役にしたドラマや映画では、華々しい本能寺での戦いですが、当事者の言い伝えによると少し様相が違っていたようです。「とき」は明智の本家、土岐を意味し、「下しる」は天下を治めるという意味にとられたのです。信長のセリフ、「是非もない(しかたがない)」はこの時の言葉です。織田信長の嫡男信忠も、明智軍に攻め込まれ自刃して果てています。まず本能寺に入ることは、とてもたやすく、織田の供回りからの抵抗は殆どなかったようです。途中の王子村で、別動隊が分かれて信忠のいる二条・妙覚寺を目指します。同じころ、信長は安土城を出て僅かな人数を伴なって本能寺に入っています。明智の先方隊が本能寺を視野に入れた時には、既に夜明け直前になっていました。そして恒例となっている愛宕山に参拝し、必勝祈願を行っています。信長を打ち取ったあと、織田の城である安土城に入ろうとした光秀ですが、信長の首がなくその死を確認できない事を理由に橋が落とされ安土城には入城できませんでした。広い敷地とそれを取り巻く堀や土塁など、寺というよりチョットした城のような機能を持ったお寺でした。しかしこの間に秀吉が信長の死を知り、毛利と和睦して光秀目指して進軍している事を知る由もありませんでした。信長の供回りが少なく無防備であること、そして徳川を案内していはずの嫡男信忠が何故か突然京都に戻ったのです。暫くして異変に気付いた小姓が3人出てきましたが、すぐさま打ち取られています。またこの時織田家の主な武将たちは、直ぐには戻れない距離で戦をしており、京都の周りには明智軍しかいなかったのです。 大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀にまつわるエピソードは数々ありますが、これは最も有名な逸話のひとつといってもいいでしょう。「本能寺の変」のきっかけになったとされる出来事です。