最澄は天台数学を中国で専攻して学び、比叡山延暦寺に天台宗を開きました。 一方、空海は真言(サンスクリット語)と密教を専攻して学び、高野山金剛峯寺に真言宗を開きました。 よって、天台宗と真言宗は下記の表のようにまとめることができます。 しかし、最澄が派遣した弟子(泰範たいはん)が戻らなかったり、経典の貸し借りに関する意見の相違などのトラブルにより2人決別しました。 空海の晩年 金剛峯寺. 42歳に四国八十八ヵ所を開きます。現在でも霊場巡りとして信仰が残っています。 最澄(さいちょう)といえば、比叡山延暦寺そして天台宗の開祖です。 今回、最澄のかんたんな経歴、仏教で日本に与えた影響、空海との違いについてかんたんに紹介します。 目次 1 最澄、プロフィール2 かんたんな経歴、何した [&he 真言宗の聖地、高野山。その見どころは奥の院と壇上伽藍の2つです。ここでは、高野山に金剛峯寺を開山した弘法大師・空海と高野山の見どころについて書いています。 空海さんが最澄さんに 潅頂 かんじょう (密教の儀式のひとつ) を授けたのも、こちらだったそうです。 要するに、 高野山に入る前の空海さんにとっても、 とても、意義深いお寺だったことは 間違いなく、 最澄がいたからこそ、仏教の基本スタイルである宗派が生まれ、現在の仏教があるようです。最澄は、修行あるのみ!といった厳しい道のりを歩む一方で、空海は修行をするよりもどんどん人々と関わって、困っている人を助けようとしました。こちらの記事で空海について、かんたんにわかり易く紹介しています。比叡山延暦寺で有名な最澄ですが、平安遷都(首都の移転)に関わっていたとは驚きです。れきし上の人物.comサイト管理人。元々はかなりの歴史オンチ。今では歴史にハマってしまい、城巡りとかしちゃってる。よかったらフォローしてってください。最澄は、現状の仏教に嫌気が指し、自らの理想の仏教を求めて比叡山での修行を開始したのでした。さらには、現代日本のメジャーな宗派として知られる、日蓮宗の日蓮、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元たちは皆、最澄とおなじ比叡山延暦寺で修行をしたお坊さんたちだったのです。ですから、最澄の教えである天台宗は、庶民の心の拠り所となり、皆に勇気と希望を与えたとされています。最澄は自らも仏教界のスターでありながら、後に数々のスターを生み出していたのです。もし最澄が居なかったら、平安遷都は失敗に終わり、今、私たちが慣れ親しんでいる仏教との関わりも別の形になっていたのかも知れません。12歳で寺に弟子入りし、14歳で最澄と名乗り、そして19歳になった最澄は奈良・東大寺で正式な手続きをしお坊さんとしてデビューしました。空海が世に広めた真言宗は、密教にも多く影響を受けており、人は生きていながらにして仏になれると説きました。両者ともに、通常では考えられない努力と猛勉強をし、仏教を通じて人々を助けることを目的にしましたが、そのプロセスに違いがありました。それまでの日本で主流だった法相宗は、人は生まれた家柄によって仏にもなれる人もいれば、なれない人もいるという教えでした。822年6月に56歳でこの世を去り、866年には、生前の功績を称えられ、伝教大師(でんぎょうだいし)の位が清和天皇より贈られ以後伝教大師最澄と呼ばれています。またその頃の仏教は、貴族のためにあるようなもので、一般庶民は皆アウェイー感を味わっていたのです。 最澄と空海は、平安時代の同じ時期に現れ、同じ時期に遣唐使として唐に渡り、日本で天台宗と真言宗を開きました。 その後の日本の歴史に大きく関わる寺院、 比叡山延暦寺 、 高野山金剛峯寺 を創ったことでも知られています。 ですから最澄が叡山に比叡山寺(一乗止観院)と呼ばれる草堂を作ったのは、天台宗が密教化する前! ですので、最澄の場合は、空海と動機が同じとは言えないわけですよね。 ・・・ただ最澄も、密教に関心がなかった訳ではありません。

最澄(767~822年)は豪族の父のもとに生まれ、12歳のときに出家します。19歳のとき比叡山にこもり自省の書である『願文(がんもん)』を著します。そこには「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」に至らなければ山を下りないという決意が書かれていました。そして天台宗の修行の特徴は「止観」にあります。心を静めて本来の静寂な状態に安定させることが「止」で、「止」によって安定した心で対象を観察することが「観」です。「止観」は、「止」という禅定だけでなく、「観」という智慧も重視するところを特徴とする瞑想法です。最澄は天台の教義を中国から持ち帰り、さらに独自の思想や禅、密教などを総合させた日本の「天台宗」を成立させました。予想外だった密教の求めに応じきることができず、年下の空海に教えを乞うなど、密教における勝敗はついていましたが、その後の「天台宗」と「真言宗」の発展においては、その勝敗は逆転してゆきました。そのような二人のドラマとともに平安仏教は発展し、こののちの鎌倉新仏教が展開する礎となったのです。天台宗の開祖である「最澄」について知っていますか?最澄は「空海」と同じ時期に唐に渡り仏教を学びました。帰国後の二人は日本の仏教の礎となる平安仏教を代表する高僧となります。ここでは最澄の思想や生涯と、空海との比較、さらに天台宗について説明します。まずはじめに「最澄(さいちょう)」の生涯や思想について説明します。797年には桓武天皇の「内供奉(ないぐぶ)」に選ばれ、また法華教の講義なども行うなど、エリートとして華々しく活躍します。「内供奉」とは、宮中の内道場に奉仕する官職のことで、全国から抜擢された高僧がその職務につきました。その一方で空海は高野山や東大寺に道場を開き、東寺も与えられるなど精力的に真言密教の「真言宗」を広げてゆきました。交流が途絶えてからの二人の歩みは対照的なものでした。空海は2年という短期間に、当時の仏典を修めるために欠かせなかった梵語を習得し、密教僧として名高い恵果に学び、恵果の後継者として指名されるなど完璧に密教をマスターして帰国します。その時、多くの経典や曼荼羅、法具なども持ち帰りました。この思想はインド仏教にはなく、中国を起源として日本で特に発展した仏教思想であり、時代を経るごとに他の教理と結び付けられ、新たな解釈を生んでゆきます。すなわち浄土教などの、人間は本来、仏であるのだから修行する必要も戒律も必要なく、念仏を唱えるだけでよいというような独自の解釈です。二人の関係が切れてから、最澄は晩年まで論争にあけくれることになりました。徳一という人物との教理の解釈をめぐる論争です。その論争の決着はつかないまま、最澄は満身創痍で生涯を閉じました。ところが帰国すると、当時、新しい仏教として注目されていた密教の呪術能力が求められることとなり、最澄は年下のライバルであった空海に身を低くして教えを乞うことになります。しかし、最澄が派遣した弟子が空海の弟子となって戻らなかったり、経典の貸し借りに関する意見の相違などによって二人の関係は途切れてしまいます。二人の没後における最澄の「天台宗」と空海の「真言宗」の発展の様相には、また違った対照をみることになります。真言宗においては、空海があまりに偉大で完璧であったためか、後継者に恵まれず、その教義も空海以上に深められることはありませんでした。しかし天台宗においては、最澄が果たせなかった密教の教義を完成させるため、弟子たちが習得にまい進し、教理を飛躍的に発展させます。天台の教学は隋の智顗(ちぎ)が6世紀に確立したもので、『法華経(ほけきょう)』の教義を中心とします。法華経の教えは誰もが悟りを得ることができるという「一乗思想」の立場を取りますが、悟りを得られない人もいるとして、そのレベルによって教えを分けるべきだとする「三乗思想」の法相宗と論争を繰り広げました。前に説明した徳一は法相宗の立場でした。そして還学生(げんがくしょう:短期留学生)に選抜された最澄は、38歳のときに遣唐使として中国に渡り、天台の教義とともに禅や密教の教えを受けます。その期間は1年間という短いものでしたが、帰国後の806年に桓武天皇より天台宗が公認され、最澄は日本の天台宗の開祖となります。最澄の天台宗は、中国の天台宗をそのまま伝えたのではなく、先に説明した「円・戒・禅・密」を統合した、「四宗合一(ししゅうごういつ)」または「四種相乗(ししゅそうじょう)」という思想が基本です。866年には清和天皇より伝教大師の諡号(しごう・おくりな)が贈られました。これが日本で初めて贈られた大師号でした。大師号とは、徳の高い高僧の死後、朝廷から贈られる名のことです。最後に最澄が成立させた日本の天台宗について説明します。天台宗は日本仏教の原点とされています。天台宗の本山寺院である比叡山・延暦寺は平安仏教の中心地となり栄えました。その後、延暦寺は多くの名僧を輩出します。日本天台宗の基礎を固めた円仁、浄土宗の開祖である法然、浄土真宗の開祖である親鸞、曹洞宗の開祖である道元、日蓮宗の開祖である日蓮など、鎌倉新仏教の開祖や、日本仏教史で重要な功績を残した多くの僧が比叡山で修行しました。また最澄の弟子の円仁は、密教のあとに日本の仏教界を席巻する浄土念仏も取り入れるなどして天台宗を発展させ、比叡山は仏教の総合センターとなって繁栄してゆきました。その一方で最澄は1年間と決められていた期間の中、おもに天台の教えを中心に学びました。禅や密教も学びましたが、とくに密教については十分に学ぶ時間がとれませんでした。最澄が遣唐使として唐に渡った804年には、船は違いますが空海も留学生として遣唐使船に乗っていました。最澄はこのとき38歳で、すでに注目されていたエリート僧でしたが、31歳の空海は全くの無名の若者でした。六根清浄とは、人間に具わった六根を清らかにするという意味です。「六根」とは、視覚や味覚などのからだの感覚である五感に意識を加えた6つの感覚器官のことです。覚悟を持った比叡山での修行は12年続きました。「天台本覚思想(てんだいほんがくしそう)」は「本覚思想」ともいわれます。「本覚」とは、「本来の覚性」を意味し、一切の衆生には本来、仏性(悟りの智慧)を備えていることを意味します。この思想を表す言葉「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ」は、人間のみならず草木や国土にも仏性があるとします。最澄が開いた日本の天台宗の思想は「円・戒・禅・密」を総合することでした。「円」とは円満な教えのことで、中国を発祥とする本来の天台の教理を指します。「戒」は戒律のことで、最澄独自の思想です。「禅」は禅の行法で、「密」は密教の教えです。