淀川旧分流施設は、内務省による淀川改良工事として、土木監督署技師沖野忠雄の計画に基づき、建設された。 毛馬洗堰は、明治43年1月の竣工になり、延長18.4mの煉瓦造及びコンクリート造構造物で、翼 …

淀川旧分流施設は、内務省による淀川改良工事として、土木監督署技師沖野忠雄の計画に基づき、建設された。 毛馬洗堰は、明治43年1月の竣工になり、延長18.4mの煉瓦造及びコンクリート造構造物で、翼 … 文化遺産を紹介した文化庁のサイトによれば、「淀川旧分流施設は、わが国最初期の高水工事であるとともに、初めて大型建設機械を導入して実施された淀川改良工事の代表的遺構として、近代河川史上、高い価値がある。」と記されている。 大阪の近代化に重要な位置を占める淀川改修を象徴的に示す記念碑としても貴重である。 平成20年、「淀川旧分流施設」として国の重要文化財指定をうけたことにより、大阪市の指定については解除。

毛馬水門(けますいもん)は、大阪府 大阪市 北区にある淀川と旧淀川(大川)を隔てる水門。 大川に流れる水量を調整する役目と同時に、淀川と大川の水位差により困難となる船舶の通過をスムーズにさせるための設備である閘門 および 大川の水を強制排水するための機能を備えている。 淀川旧分流施設毛馬第一閘門【重要文化財】 現在は淀川河川公園の一施設として整備されているので、見学可能です。 淀川は大規模な洪水が頻繁に発生していたため、明治29年から改修工事に入り、その工事の中で第一閘門と洗堰を設置しました。 -淀川大堰と重要文化財淀川旧分流施設- 治水の要と明治の遺構 淀川大堰 毛馬洗堰 毛馬閘門 日本の近代的河川改修は明治時代に淀川から始まりました。 明治の「淀川改良工事」では大阪市中心部を洪水から分離するため守口から (土曜日、日曜日、祝日及び12月29日から翌年1月3日までは除く)文字サイズ変更機能を利用するにはJavaScript(アクティブスクリプト)を有効にしてください。JavaScript(アクティブスクリプト) を無効のまま文字サイズを変更する場合には、ご利用のブラウザの表示メニューから文字サイズを変更してください。Copyright (C) City of Osaka All rights reserved.8時00分から21時00分まで(年中無休)月曜日から金曜日の9時00分から17時30分まで 大阪の近代化に重要な位置を占める淀川改修を象徴的に示す記念碑としても貴重である。 平成20年、「淀川旧分流施設」として国の重要文化財指定をうけたことにより、大阪市の指定については解除。 淀川旧分流施設は、明治中期より内務省(現・国土交通省)によって進められた淀川改良工事の一環として建設された。現在は新しい施設に役目を譲り、淀川河川公園の一部として周囲を整備の上保存され … 大阪市北区長柄東3-3-25 淀川旧分流施設 毛馬洗堰 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治43(1910) 煉瓦造、コンクリート造及び鉄筋コンクリート造洗堰、延長18.4m、右岸翼部附属 毛馬第二閘門1所、淀川改修紀功碑1基 20080609 淀川旧分流施設毛馬洗堰: よ み: よどがわきゅうぶんりゅうしせつ: 指定区分: 重要文化財: 住 所: 大阪市北区長柄東3-3-25: 制作年代: 明治43年(1910) 構造規模: 煉瓦造、コンクリート造及びRC造洗堰、延長18.4m、右岸翼部附属: 設 計 : 所 有 者: 国(国土交通省) 写 真

中津川は新淀川に吸収合併されたが、毛馬から下流の旧淀川(大川)はそのまま残されたので、新旧の淀川が分岐する毛馬は、洪水から大阪市内を防御する上での要となった。分派地点である大川の流頭部に洗堰を設置し、水門の操作によって大川への流入量を調節した。大川には普段必要な水量だけを流し、洪水時は洗堰を閉めて流れを新淀川に流すことで大阪市内の治水機能の強化が図られた。こうした旧淀川の水位低下に起因する舟運の不通を改善するとともに、長柄運河を経てつながっている伝法川下流部の水不足を解消するために、第一閘門の下流側に毛馬第二閘門が設けられることとなった。位置的には、先の1921年の地形図に示したとおり淀川>>第一閘門>>長柄運河分派点の船溜まり>>第二閘門>>大川という直列の配置になる。毛馬第一および第二閘門の通船数が年間2万数千隻に減少し、淀川舟運の晩期にあたる1961(昭和36)年のある日、淀川から毛馬閘門を通過する砂船の様子を記録した写真が手元に残っている。これらは父が撮影したもので、撮影日は不詳である。写っている人の服装などから判断して、初夏の5月頃か、あるいは秋の10月ごろではないかと思われる。1984(昭和59)年に竣工した淀川大堰の建設にともない、新しい毛馬水門と毛馬閘門がつくられ、古い毛馬洗堰と第一・第二の閘門は役割を終えた。洗堰は敷地内に新しい排水機場を建てるため3門を残して解体され撤去された。1930年をピークとした第二閘門の通船数は、1940年には半分以下の約4万6千隻に減少しており、さらに戦争末期の1945年には5千隻を大きく割っている。舟運の衰退だけでなく、戦争の影響が通船数にも如実に反映されている。築造後、大正や昭和になってから魚道の設置や堰柱の継ぎ足し補修が加えられた。1949(昭和24)年のヘスター台風が来襲した時に水位の急上昇があり、角落しの操作に手間取ってゲート閉鎖に遅れが生じたことから、1961(昭和36)年に電動式のゲートに改造された。さらに1964年には電子計算機を組み込んだ自動制御ができるシステムが導入され、要求放水量に応じて毎秒40トン~160トンの範囲で自動制御・自動操作できるように改良された。廃止直後の港車庫にてようやくわかった撮影場所車庫に並ぶ市電1701型と相互信用金庫の看板中学生のとき...現在は「毛馬水門」に名前を改めて上流100mに移動し、排水機場と閘門に挟まれた場所で2代目が稼働している。3門からなる新しい毛馬水門には、水位調節用のローラーゲートに加え、淀川の洪水時に使用される遮水用のローラーゲートも設置されている。1号環状線 土佐堀-なんば 開通土佐堀入口の料金所にさしかかるセドリックのタクシー【1964年 撮影】1964(...舟運を支えたさまざまな仕事 木造船の造船所 鴻池組と正蓮寺川 造船所の立地と高潮対策 造船所のあった場所...この水位低下は長柄運河にも大きな影響を与えた。下流にある伝法川や正蓮寺川に予定の流量を流すことができないばかりか、満潮時には潮水が逆流して伝法川や六軒屋川に設置されている閘門が機能しなくなってしまった。この洗堰では、普段は毎秒80トンから110トンの水を大川に流入させ、洪水時には角落しで堰を全閉にする操作が行なわれてきた。翌年の1911(明治44)年になると、長柄床固沈床の設置地点には、丸太と堰板で組んだ仮堰が設けられた。水位が低下したときにも一定の分水流量を確保するためには、淀川の流れを堰き止める必要があったからである。但し、木製の仮堰は増水すると流されてしまうため、出水期がくる前に撤去しなければならない不便があった。そこで仮堰をより強固にし、さらに調整機能を高めた永久施設に改築することになり、1914(大正3)年、83枚の木製ゲートを備えた長柄起伏堰が完成した。毛馬でゆるやかな右カーブを描く新淀川の河道に対して、大川の流頭部である洗堰が少し逆戻りするような不自然な鋭角で分派しているのはそのためである。また、分派にこのような角度をもたせることによって、水衝部の左岸に位置する洗堰や閘門に、速い流れが直接ぶつからないように工夫したとされている。タカギノタマゴのメインサイトです。 旧サイトや検索結果からのリンクで「Not Found」が表示された場合は、お手数ですがサイドバー上部の「記事検索」をお試し下さい。文化遺産を紹介した文化庁のサイトによれば、「淀川旧分流施設は、わが国最初期の高水工事であるとともに、初めて大型建設機械を導入して実施された淀川改良工事の代表的遺構として、近代河川史上、高い価値がある。」と記されている。毛馬洗堰は築造後65年間にわたって稼働し続けたが、淀川大堰の建設にともなって撤去し、場所を変えて全面的に改築されることになった。淀川大堰の水位変化に対応するとともに、淀川と大川の河床の低下を見通した構造・寸法とする必要があったからである。1885(明治18)年6月、低気圧にともなう連日の降雨により淀川は増水し、枚方で左岸の堤防が切れて、大阪市内にかけての淀川左岸が水浸しになった大洪水が発生した。この大洪水が契機となって、1896(明治29)年に河川法が制定され、翌1897(明治30)年から淀川改良工事がはじまった。この改良工事によって、上流では瀬田川に南鄕洗堰が新設され、中流の巨椋池付近では宇治川が付け替えられた。そして下流部では、決壊した枚方付近の河道が拡幅され、洪水時の流れを速やかに大阪湾に流すことができるよう、毛馬から西に新しい放水路として新淀川が開削された。戦争が終って通船数も増加したものの、1年間で4万隻を越えることはなく、1950年から1960年代後半にかけては2万隻台を推移している。舟運の衰退とともに毛馬閘門を通過した船舶は戦前の全盛期の約4分の1から3分の1程度に減少している。淀川改良工事に続いて、明治から大正にかけて淀川下流改修工事が進められ、 安治川から楠葉に至る低水工事、毛馬第二閘門の設置などが行なわれた。中津川と鼠島の変遷 ← 現在地 中津川と鼠島の350年 中津川と鼠島が残したもの 今後の課題六軒屋洗堰...地形図に描かれた川と島【大正~昭和前期】 陸測1万分の1地形図でみる川と地域の変貌 閘門の増設と航路の変化...国の重要文化財指定に際して、きちんと管理できているかどうかを確かめる事前の審査があったのであろうか、前年の2007年ごろから痛んだ鉄扉が塗装され、見学者のための通路や手すりのついた階段なども整備された。1万分の1仮製図「大阪西部」(部分)を彩色 【1921(大正10)年測図】中津川と鼠島-地図から消えた川と島(1)は...淀川大堰や毛馬排水機場などの建設にともない、毛馬の閘門も場所を移動して新築されることになった。豊中市北部の丘陵地 永楽荘から見えた山 山の同定作業 見えた山は向谷山 豊中市北部の丘陵地...洗堰の建設は1904(明治37)年12月に着工したが、堰柱などの基礎を深くとらねばならなかった関係で湧水が多く、かなりの難工事となった。完成したのは着工から5年あまりが経過した1910(明治43)年1月である。この記事を含む島熊山に関連した4編の記事は、2012年に旧ブログで公開した論考に一部加筆して再掲したものである。なお、初出の旧ブログ...なお、明治につくられた初代の洗堰は、現在稼働している2代目(毛馬水門)とは異なり、閘門よりも上流側に位置していた。両者の位置が現在と異なるのは、淀川から毛馬の閘門を経由して長柄運河との間を航行する船の航路を確保するためである。このように明治から大正にかけての一連の河川工事によって、治水や利水機能が高められ、淀川の中流域と大阪市内や大阪港方面とを結ぶ舟運の主要航路が形成された。『淀川百年史』によると、閘門の概要や扉の操作方法について次のように記されている。また、毛馬第二閘門と淀川改修紀功碑は、重要文化財の「附(つけたり)」に指定された。1974(昭和49)年に発行された『淀川百年史』には、毛馬閘門を通過した船舶について、船種別の通船数を集計した総括表が掲載されている。次に掲げた図はその総括表の数値に基づいて、1912(大正元)年から1973(昭和48)年までの約60年間を対象に、おおむね5年ごとの第一閘門と第二閘門の通船数を抜き出し、それぞれの推移をグラフに示したものである。2008(平成20)年6月、毛馬洗堰と毛馬第一閘門(鉄製門扉、扉開閉装置、アーチ橋を含む)は、『淀川旧分流施設』として国の重要文化財に指定された。解体を免れた閘門は現地に保存されることになったが、適切に管理していくための予算と人手がないのかして、しばらくのあいだは放置されたも同然であった。2006(平成18)年度に大阪市が第一閘門と洗堰1構、淀川改修紀功碑を重要文化財に指定していたが、所有者でもないので修復費用や保全していく費用まではおそらく担保できなかったのであろう。万博に参加したタイ王国の象たちシリーズ「万博のころ」の第2回目は、万博が開催されていた期間のうち、夏の1ヶ月を千里丘陵で過ごした象の...この記事を含む島熊山に関連した4編の記事は、2012年に旧ブログで公開した論考に一部加筆して再公開したものである。・島熊山の一本松【初出...通船を妨げた原因は、大川との分派点から少し下った長柄橋付近に工作物が設けられたからである。川の水が流れるとき、下方への浸食作用で川底が掘られてしまう。そうした浸食による川底の深掘れを防ぐとともに、毛馬洗堰から大川への流量を安定的に確保するために、1910(明治43)年、3箇所の沈床と床固からなる長柄床固沈床という工作物が設けられた。なお、以下に掲げた写真の大半は当時購入したばかりの望遠レンズで撮影されており、遠近感が実際よりもかなり圧縮されている。したがって、川幅や閘門の長さは実際よりかなり短く写っている。ともあれ、これらの記念碑的施設が使われていた状態で、使われていた現地に残せたことはなによりである。来訪者への安全対策上、転落防止柵などの設置はやむを得ないとして、手を入れすぎて過剰にきれいにしたり、へんてこりんなモノを近くに設置したりせずに、現役当時の雰囲気を維持しながら保存・継承していくことを望んでやまない。1961年(昭和36)年に六軒屋閘門が廃止され、1973(昭和48)年には長柄運河が埋立てられたので、毛馬の閘門から長柄運河に向かう船やその逆コースをたどる船は、1960年代の終りごろには統計上も見受けられなくなった。なお、第二閘門は先にも述べたように、護岸などの付帯施設を含めた正式な完成は1918(大正7)年7月であるが、実際には本体が概成した1916(大正5)年の9月から通船を受け入れている。また、1970年代になると、航路は淀川と大川間に限られ、年間で1万2千~1万4千隻前後を推移している。淀川筋を航行する船舶は、昭和初期の最盛期の1~2割程度に激減してしまったことがわかる。