FューパリノスJ論 一一創造行為をぬぐうて一一 山 本 省 1 rユーパリノスj(Eupαlinos) 執筆の経緯 現在我々が接することのできるヴァレリーの諸作品は『カイェJI (Cahiers) を除くとほぼ すべてが,友人や出版社などの要請に応じて書かれている。 ☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその2「煩悩をもつ衆生であっても悟りを開くことができるという教えはとんでもないことです。 現在の身体のままで仏となることは真言密教の本来の考えです。人間の身体的行為、発語行為、意識作用と大日如来の身口意(三密)とが、真言密教の修行により一体化して、さとりを得ることです。人間の感覚や意識をつかさどる六つの器官とその能力。すなわち眼根(げんこん)・耳根(にこん)・鼻根・舌根・身根・意根を清らかにすることは天台宗の法華一乗の教えが説いているところです。衆生の身口意の三乗についてのあやまちを離れることと、衆生を教化(きょうけ)するための誓いをたてることで、心身がおだやかで、満ち足りていて、清らかになるという修行です。」 ☆Comment唯円は真言宗やと天台宗などとの浄土真宗の信心の違いについて述べようとしています。ぼくは1月3日に一日の大半を童話創作に費やしました。するといつも夕方になると、今日も一日が終わるのか、という寂しさがやってくるのですが、その日は何も起こりませんでした。すなわち満ち足りていたのです。これは真言密教の経典である理趣経にある菩薩の境地に近いものなのでしょうか。真言密教の経典である『理趣経』の最初の部分である大楽(たいらく)の法門において、「十七清浄句」といわれる教えが説かれているそうです。今日はその16と17を観てみます。16 香清淨句是菩薩位 - この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。17 味清淨句是菩薩位 - 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。 香りも味覚も菩薩の境地であるといいます。 童話を書いていて気持ちが喜ぶのは11 意滋澤清淨句是菩薩位 - 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。と、12 光明清淨句是菩薩位 - 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。にあたるのでしょうか。仮にそうだとしても唯円はなぜ、否定するのでしょうか。それは自らをたのむことにつながるからです。そしてそのような修行をできない人を下に見ることになるからです。ぼくが坊主に感ずる不快感は人を見下す態度と人を教え導こうとして説教する姿勢にあります。転じて自らをみるとき、そのような態度を知らず知らずのうちにとっていないか、考えてみようとおもいました。そのとき、他力の考えは深い響きをもって立ち現れてくるように思われます。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ) (http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ) (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月5日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) 思考する詩を求めて ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」を読む第2回 ヴァレリー『若きパルク/魅惑』改訂普及版 中井久夫訳(みすず書房2003年発行)より  ★抽象的なものを詩に仕立てる手法  「鳩歩む この静かな屋根は松と墓の間(ま)に脈打って真昼の海は正に焔。海、常にあらたまる海!一筋の思ひの後のこの報ひ、神々の静けさへの長い眺め」   ☆解釈「鳩が歩いている静かな屋根の上を。石づくりの屋根は松の林と海辺の墓地の間に脈打つように盛り上がったり、へこんだりしているのが規則正しく続いている。その向こうには真昼の海がある。日をうけて焔のように燃えている。海よ、いつも新しくなる海よ。一筋のつながりのある思考を終えた後の、果報だ。神々の静かな風景への長い眺め。」 ☆comment ヴァレリーは兄への手紙で「ダンテの言語のスタイルは私の狙ひにほぼ近いものがありますね。抽象的なものを詩に仕立てる手法の一つで、私も多少『海辺の墓地』で使ったものです。」(『若きパルク/魅惑』改訂普及版 「ヴァレリー詩ノート」より)と書いています。 抽象的なものを詩に仕立てる手法を「海辺の墓地」で取っているのです。その手法を学ぶことができれば素晴らしいです。    (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月29日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)   エッセーその29 ★「夢に向かって走る」 「『大地の詩(うた)』(写真家阿岸充穂=あぎしみずほ)は、自然を正面からみつめた写真集だ。もし阿岸さんが今生きておられるならば、この写真集のことをどう思われただろう。きっと満足されなかったにちがいない。もっとやりたいことがあったにちがいない。しかし、今でもこの写真集がぼくをうつのはなぜだろう。人は生きているかぎり、夢にむかって進んでいく。夢は完成することはない。しかし、たとえこころざし半ばにして倒れても、もしそのときまで全力をつくして走りきったならば、その人の一生は完結しうるのではないだろうか。アメリカの大地をテーマに十年間、阿岸さんは最後の瞬間まで走りきった」(『アラスカ光と風』より星野道夫作。『旅と冒険の話集』学習研究社所収) 阿岸さんは「アメリカの大地をテーマに写真を撮りつづけ、1976年、空撮のため小型飛行機をチャーターし、離陸直前、プロペラに巻きこまれて事故死した」方だそうです。「夢は叶えるためにある」と言ったのは、女子サッカーの澤穂稀選手です。ワールドカップで優勝した直後ですから、高揚していたのでしょう。観ているぼくも感激しました。 しかし、多くの方にとって夢が叶うことは、ほとんどないのが現実です。では、どう夢をもち、どう生きていったらいいのでしょうか。 多くの芸術家の夢は、ほとんど叶わないまま死を迎えます。パリまで絵を習いにいって、売れる画家になれる人は極くまれです。 夢が結果として叶ったとしても、それが死後であることは枚挙に暇がありません。生きている間は売れなくて、死後売れ出した画家はたくさんいます。 詩人でも石川啄木、山村暮鳥などは死んでから売れ出しました。生きている間は夢が叶わないで、死後叶う可能性はあります。では、生きている間に澤選手のように「夢が叶う」こともない状態が続いているのに、なお夢をもちながら、どう生きていったらいいのでしょうか。 その答えが星野道夫さんの文章にあります。「人は生きているかぎり、夢にむかって進んでいく。夢は完成することはない。しかし、たとえこころざし半ばにして倒れても、もしそのときまで全力をつくして走りきったならば、その人の一生は完結しうるのではないだろうか。」 夢にむかって全力をつくして走りきったならば、人の一生は完結できるのでないか、というのです。 ぼくもそうします。夢に向かって走ります。 (この項終り)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月19日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ● フロイト『ヒステリー研究』と詩の理論 その101  テキストは、ヨーゼフ・ブロイアーとジークムント・フロイト共著『ヒステリー研究下』(ちくま学芸文庫 2004年2月10日発行)です。引用もとくに断りのないかぎり本書です。 •☆ 第三章 理論的考察(ブロイアー) ★詩作は「人間の活動領域の内で最高の領域」である 「ある表象(記憶の象--引用者注)の成立条件となる脳内部の興奮が、末梢部の回路の興奮によって代替される」(42頁) ☆これがヒステリー現象です。末梢部の回路の興奮とは異常な身体の表出をさします。これを理解するにはどうしたらいいでしょうか。 「既定の反射が生じないという事態を想い起こすといい」(42頁) ☆例として、鼻の粘膜への刺激がくしゃみという既定の反射を生じさせないとき、興奮感や緊張感が発生して、脳全体へと広がっていくといいます。 ここで既定の反射とは正常な反射という意味でつかわれているのがわかります。 すなわち復讐衝動も既定の反射がなされないと、末梢部の回路の興奮によって代替されてしまうのです。これが固定化するのがヒステリー症状です。 「私たちは人間の活動領域の内で最高の領域にいたるまで、この過程を辿ることができる。ゲーテがある体験を吹っ切ることができたのは、ようやく彼がそれを詩作において解消したときのことだった。ゲーテにおいては詩作がある情動に対する既定の反射であった。そしてこの反射が起きるまでのあいだは、増大した興奮に苦しめられることになったのである。」 ☆ついに出ました。ぼくが詩作でこれまでやってきたことが、実はゲーテも行っていたのです。そのことが、フロイトと共著者のブロイアーによって書かれています。 詩作は「人間の活動領域の内で最高の領域」にあると書いています。これはゲーテの詩であって、ぼくの詩ではないと見ることもできますが、ぼくはゲーテの詩であっても殿岡秀秋の詩であっても、詩作は「人間の活動領域の内で最高の領域」であると信じることにします。「ゲーテがある体験を吹っ切ることができたのは、ようやく彼がそれを詩作において解消したときのことだった。」というのは、ぼくがこのフロイト『ヒステリー研究』と詩の理論を書いているテーマそのものです。桎梏の体験を詩作によって、振り切ることができたのです。ゲーテはある体験の増大した興奮に苦しめられていたといいます。それはゲーテにとっての屈辱体験だったかもしれません。その体験のときに、正常な反射、すなわち報復ができなかったから、表象(記憶の象)に苦しめれていたのでしょう。ところが「ゲーテにおいては詩作がある情動に対する既定の反射であった。」という方法で対処したのです。情動に対するその場でなされる正常な反射と同じ効果が時間が経ったあとでも、詩作によって可能になるのです。もちろんこれは詩作でなくてもかまいません。医師やコンサルタントに語ることでも、日記に書くことでも、人前で告白することでも、自分史に書くことでも、私小説に書くことでもいいのです。ただ、「人間の活動領域の内で最高の領域」が詩作であるというだけです。詩作の過程え情動のある体験を反芻することが、屈辱体験に対して、その場で言い返したり、報復したりすることと、同じ効果を精神にもたらします。その上に芸術作品まで産み落とすことができるのです。まさに一石二鳥、これは素晴らしいことではないでしょうか。   (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ) (http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ) (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月30日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) このメルマガを解除したい方は次のアドレスからお入りください。http://www.mag2.com/m/0000163957.htmlエッセーその28 ★小説執筆は座禅より忘我の状態になれるーー瀬戸内寂聴さん   春山茂雄さんの『新脳内革命』を読みました。その中に崇高な欲求を持つといいということが書いてありました。崇高な欲求だと脳の快感物質にストップがかからないというのです。普通の欲求にはストップがかかるようになっているそうです。たとえばは性欲は度が過ぎると活性酸素が出るので脳でストップをかける物質がでるそうです。しかし、例外なのが崇高な欲求でこれにはストップをかける物質が出てこないというのです。だから崇高な理想に向かうのがいいそうです。 脳の快感ホルモンβエンドルフィンは瞑想やEDRで出るそうです。バーチャル脳といって遺伝子などの根源であり、老化防止に役立つ快感ホルモンなのだそうです。 朝日新聞2012年1月12日(木)夕刊5面 「人生の贈りもの」欄に作家の瀬戸内寂聴さんがインタビューに答えています。その終わりの部分を引用します。「仏へのお勤めは私の僧侶としての義務。義務だからちょっと苦しい。執筆活動は、私の欲望、小説こそは快楽です。得度は、ある意味で、仏教の勉強不足で書いた「かの子りょう乱」への反省も込めた思いからであり、小説執筆は座禅より忘我の状態になれます。」 座禅は瞑想ですから快感ホルモンが出ます。それより忘我の状態になれるというのですから、さらに快感ホルモンが出ているのでしょう。崇高な理想に向かっている状態に近いのではないでしょうか。 ぼくも詩や童話を書くときに忘我の状態になれたらいいと想います。  (この項終り)   (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月15日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ●直訳「歎異抄」 第99回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★酔うなら創作に夢中の忘我でいたい  ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその7「いかにいわんや、戒行恵解(かいぎょうえげ)ともになしといえども、弥陀の願船(がんせん)に乗じて、生死(しょうじ)の苦海をわたり、報土(ほうど)のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲(こくうん)はやくはれ、法性(ほっしょう)の覚月(かくげつ)すみやかにあらわれて、尽十方(じんじっぽう)の無碍(むげ)の光明(こうみょう)に一味(いちみ)にして、一切の衆生(しゅじょう)を利益(りやく)せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。  ☆語句の意味(辞書から)いかにいわんや=いうまでもなく。ましてや。戒行=戒律を守って修行すること。恵=真理を見通す心のはたらき。智慧。般若(はんにや)。解(げ)=悟ること。わかること。また、説明すること。報土(ほうど)=報身仏の住する世界。阿弥陀仏の極楽浄土もその一つ。法性(ほっしょう)=宇宙万物の共有する不変・平等無差別な本体。あらゆる存在の本来の真実なるあり方。仏の真理。真如(しんによ)。実相覚=悟り。仏の智慧。菩提(ぼだい)尽十方(じんじっぽう)=端。はし。はて。あらゆる場所・方角。残るくまもないところ。無碍(むげ)=何ものにも妨げられないこと。何の障害もないこと。また、そのさま。光明(こうみょう=)仏・菩薩(ぼさつ)の心身から発する光。智慧(ちえ)や慈悲を象徴する。一味(いちみ)=仏の教えが平等・一様であること。一切の衆生(しゅじょう=)利益(りやく)=〔「やく」は呉音〕人々を救済しようとする仏神の慈悲や、人々の善行・祈念が原因となって生ずる、宗教的あるいは世俗的なさまざまの恩恵や幸福。  ☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその7「いうまでもなく、念仏者はこの世では戒律を守って修行することも、真理を悟ることもない者なのです。ところが阿弥陀仏の請願の船にのって、生き死にの苦しい海をわたって、阿弥陀仏のいる極楽浄土の岸に着いたならば、人間の身心の苦しみを生みだす黒雲も晴れて、ものの真実の在り方の悟りが明るい月のように顕れて、あらゆる場所まで妨げるものなく照らす阿弥陀仏の知恵や慈悲の光と一体となります。そうなって、すべての人々を救済しようとするときにこそ、わたしたちの悟りと言えるでしょう。  ☆ Comment 唯円は往生(死後)してから悟りがくるといいます。それでは生きている間はどうすればいいのかが問題になります。 ぼくは何も考えないで(忘我)で何かしているのであれば、それが生きている状態として一番いいと想います。これは悟りではありません。遊びであってもいいのです。合気道の稽古のときも集中していますので、忘我の状態といえるかもしれません。詩でいい気分になることは、最近になってようやく感じるようになりました。作りはじめてからなんと40年が過ぎています。ぼくの詩は最近変わったようにおもいます。これから童話も前より書いていきたいと考えています。そのときが快楽であって、忘我の状態になれればいいとおもいます。 避けたいのは、ビールを飲んで忘我の状態をよびこもうとすることです。これは翌朝の体調を悪くして、気分も滅入ります。酒を飲む回数は以前に比べてかなり少なくなっています。でもゼロではありません。 酔うなら、詩や童話の創作に夢中になって、快楽ホルモンを脳内に出して、忘我の状態になれればいいと考えています。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月16日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ●直訳「歎異抄」 第98回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★生きているあいだは煩悩を断ちがたい  ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその6「おおよそ、今生においては、煩悩悪障(あくしょう)を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶(じょうりょ)、なおもて順次生(じゅんじしょう)のさとりをいのる。」 ☆語句の意味(辞書から) 煩悩=人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。「悪障=わるいこと。否定すべき物事。道徳・法律などに背く行動や考え。害になる。さまたげとなる。あいだ=前の叙述が後の叙述の理由・原因であることを表す。ゆえに。法華=〔「法華経」をよりどころとする宗派の意〕天台宗の別名。浄侶=きよい僧侶順次生(じゅんじしょう)=順繰りの生。次の生。 ☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその6「大体、今を生きているかぎりにおいては、身心の苦しみを生み出す精神のはたらきや、悟りの妨げとなる悪い行動を断つことは、ほとんどできないので、真言宗や天台宗の僧侶ですら、次の生での悟りを祈るほどである」 ☆Comment唯円は生きたまま人が悟ることはないと考えています。否定の対象は真言密教の即身成仏(現在の身体のままで仏となること)です。その真言密教の経典である『理趣経』の結論にあたる部分が「百字の偈」です。少しずつ紹介してきましたが、その最後の節です。「大なる欲は清浄(きよき)なり、大なる楽(らく)に富み饒(さか)う。三界(このよ)の 自由身につきて、固くゆるがぬ利を得たり」(翻訳文:金岡秀友先生 『仏典の読み方』大法輪閣版)   理趣経は誤解を生みやすい経典です。欲望を肯定しているからです。欲望を認めてそれを菩薩の境地であると書いてあるからです。真言宗では、欲を持てと理趣経で説かれているが、これは大きな欲を持てと言う意味だといいます。小さな事にこだわらないで、自分だけの欲でなく世界全体・宇宙全体についての欲を持てということなのだそうです。この世界・宇宙の総てのことを肯定し・認識することにより、より良い生活ができるようになるといいます。小我を離れた大欲は、すべてのものの幸せを忘れないで、安楽をえることができるというのです。そうすれば、あらゆるところにおいて自由であり、永遠のいのちを生きることができるというのです。はい、そうですか、というわけにはまいりません。歎異抄を読み続けながら、欲望肯定についても考え続けていくことにします。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ) (http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ) (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月13日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) 法華一乗(ほっけいちじょう)=声聞(しようもん)・縁覚(えんがく)・菩薩の三乗は、唯一の真実の教えである一乗の方便であって、法華経が説かれることによって三乗は一乗に融合されるとする天台宗の考え方。〕声聞は〔梵 ?r?vaka 仏の説法を聞く者の意〕元来は、仏在世の弟子のこと。仏の四諦(したい)の教えに従って修行し、聖者となる仏弟子。のちに大乗仏教の立場からは、個人的な解脱(げだつ)を目的とする者とみなされ、小乗の徒とされる。縁覚は仏の教えによらず、ひとりで悟りをひらき、それを他人に説こうとしない聖者。声聞(しようもん)とともに二乗といい、小乗の修行者とする。菩薩は最高の悟りを開いて、仏になろうと発心して、修行に励む人。初めは前世で修行者だった釈迦をさす名称であったが、のちに大乗仏教では自己の悟りのみを目指す声聞(しようもん)・縁覚(えんがく)に対し、自利利他の両者を目指す大乗の修行者をいう。弥勒・観世音・地蔵などの高位の菩薩は仏に次ぐ存在として信仰される。所説=説くところ。説いている事柄。安楽(あんらく)=心身がおだやかで、満ち足りている・こと。行(ぎょう)=宗教上の実践。悟りを開くための修行・行法。感徳(かんとく)=感応は人々の信心に神仏がこたえること。  ケアという臨床 22--看護という磁界(2)--漱石にみる病いと看護の省察にふれてーー  ★50歳以降をどう意識するか   夏目漱石の時代(慶応3年1月5日~大正5年12月9日(1867~1916)には、患者が看護婦と契約しました。医師の介在がなくてもそれが可能だったのです。 私(米沢)は看護という磁場(磁石や電流相互間にはたらく力の場。磁界ともいう)について本日話します。 それは情況的な問題でもあります。現在、看護という言葉は、医療の言葉として考えられています。医療の場で、・施設看護で使われている言葉になっています。看護は施設医療に規定されています。   現在の医療制度は施設を通して行われることが原則となっています。医師、看護師資格者は施設医療を通して展開している状況です。 フリーな人はいないのです。医師、看護師は施設医療の場所ではじめて、専門能力を発揮できる仕組みになっています。つまり、医療制度に牛耳られている情況です。 患者は医療施設に赴くという対応しか原則としてできないのです。医療は施設にいる専門家に支えられているのです。 こういうことを考えることは改めて重要であるとおもいます。医療制度の中に全部はいっているからです。そのことを改めてとらえなおそうとして考えているのです。 今はどういう時代なのでしょうか。医療制度は長寿社会への対応として変化してきました。 夏目漱石の時代は人生50年でした。それが長いこと続きました。 60歳ならお爺さんでした。 戦後一気に高齢社会に突入しました。いのちのステージ(舞台。演壇)のコア(物の中心部・核)はどこにあるのでしょうか。 長生きする過程で培ったものが生かせない時代を私たちは生きているのではないでしょうか。そこで「看護」について医療概念をとっぱらったところで考えてみようというのが、私(米沢)の本日のテーマです。 夏目漱石は46歳のとき、保養先の修善寺で胃潰瘍の悪化から、血を吐いて人事不省に陥りました。1910年のことです。夏目漱石は明治を生きた人です。石川啄木はこの時期病院で入院中です。明治の終わりに、象徴的なものがあるような気がします。この二人の病気と看護という具体的な事柄が明治の看護を代表しているような気がします。 夏目漱石はほぼ50年生きることで、あれだけのことをやった人です。50歳以降をどう意識するかが、現在を生きているぼくらの課題です。 ☆comment 平均寿命が延びた結果、50歳というより、60歳以降をどう生きていくかが、ぼくの課題となっています。その課題に向かうためにこうして毎日メルマガ・ブログを書いています。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ) (http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ) (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月22日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ●直訳「歎異抄」 第93回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★罪を消さなくても極楽往生できる •☆ 原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその1「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ」☆語句の意味(辞書から)煩悩= 人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。「三毒」「九十八随眠」「百八煩悩」「八万四千煩悩」などと分類され、これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。具足=物事が十分にそなわっていること。過不足なくそろっていること。すでに=動作や状態が確定し、確かにそうなっていることを表す。さとり=迷妄を去って、真理を会得すること ☆直訳歎異抄 第十四条 --罪を滅すとは何かーその9「人間の身心の苦しみを生みだす煩悩を十分にもっている者であっても間違いなく迷妄を去って真理を会得するということについて」  ☆Comment唯円は異議に闘いを挑んでいます。人生は何かとの闘いの連続のような気がします。闘いの終わるのは臨終の日なのかもしれません。吉本隆明さんの詩行に「闘われるものがすべてだ」という一行があります。釈迦が説く四苦八苦との闘いを繰り返しながら年を重ねていくのでしょう。 さて、今日も理趣経を読みたいとおもいます。真言密教の経典である『理趣経』の最初の部分である大楽(たいらく)の法門において、「十七清浄句」といわれる教えが説かれているそうです。今日はその14と15です。14 色清淨句是菩薩位 - 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。15 聲清淨句是菩薩位 - 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。色は絵画、音は音楽と想えばいいのではないでしょうか。絵画が好きな人も音楽が好きな人も大勢います。それらによって癒されている方も多いと想います。そのときは菩薩の境地にいるのだというのです。なんとなくわかる世界です。 (この項つづく)   (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月3日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その17 「家々は喚いていた鋼の森は凍りかけたおまえは素早く刺していつたさまざまの温かい憩いをまるでいたいけな嬰児の眠りも赦さぬように!」  ☆comment自己の分身であって、自分(エリアン)を脅すおまえが動きだすと、恐怖に家々が喚くように感じられるというのです。これは恐怖に喚く人の顔を家々のイメージを重ね合わせた像的喩であると想います。形式は暗喩(隠喩)です。 鋼の森は鋼の冷たく鋭いイメージとさびしく尖っている森のイメージを重ね合わせが像的喩です。そして「鋼の森」と「凍りかける」も暗喩になっています。尖った森が凍りかけたように冷たく感じられるという意味です。これは凍りかけるという意味にアクセントをいた意味的喩であると想います。 自己の分身であるおまえは、エリアンがたったひとつ守ろうとしている温かさまで刺していきます。赤ん坊の眠りを叩き起こすようなという直喩になっています。ここは赤ん坊の眠りを赦さないような残酷に刺すという意味にアクセントをおいた意味的喩になっていると想います。 (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月12日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ●直訳「歎異抄」 第97回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★欲は汚れなき花を咲かせる土壌 ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその5「これまた易行(いぎょう)下根(げこん)のつとめ、不簡(ふけん)善悪の法なり」  ☆語句の意味(辞書から)易行(いぎょう)­=自力ではなく、阿弥陀仏の力によって悟りを開く道。浄土門・念仏門などの他力宗をいう下根(げこん)=仏道修行の素質・能力の劣ったもの。不簡(ふけん)善悪­=簡単でないこと。こみいっていいるさま。法=教え  ☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその5「これが阿弥陀仏の力によって悟りを開く道であり、仏道の能力の劣ったものの修行です。そして善悪にとらわれない教えであります。」 ☆Comment 唯円の立場は真言密教の即身成仏(現在の身体のままで仏となること。天台宗など諸宗派で説かれるが、特に真言宗では根本的教義とされ、大日如来の真実の姿と修行者が一体となることで即身成仏が実現されるとする。)に対して、それは難しいので、阿弥陀仏の請願にたよって極楽往生を目指そうとするものです。その真言密教の経典である『理趣経』の結論にあたる部分が「百字の偈」です。少しずつ紹介していきます。「蓮(はちす)は泥に咲きいでて、花は垢(けがれ)に染(けが)されず。すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す」 (翻訳文:金岡秀友先生 『仏典の読み方』大法輪閣版) これを読んで想いだすのは、渥美清さんが演じる「男はつらいよ」のテーマソングです。「どぶに落ちても根のあるやつは、いつかは蓮の花と咲く」という一節です。たぶん作詞者はこの経典の文言を想い浮かべて作ったのだと思います。 泥は欲です。欲は汚れなき花を咲かせる土壌なのです。この現実肯定はなかなか魅力的です。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月11日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ●直訳「歎異抄」 第95回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★「瞑想法での精神集中は自力である ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその3 「これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。」 ☆語句の意味(辞書から)難行=浄土教で、易行(いぎよう)である念仏に対し、自力で行う修行。上根=仏道修行の素質・能力のすぐれたもの。観念=仏教の瞑想法の一。精神を集中し、仏や浄土の姿、仏教の真理などを心に思い描き、思念すること。成就=願いなどのかなうこと。物事が望んだとおりに完成すること。さとり=迷妄を去って、真理を会得すること  ☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその3「これはすべて仏道修行の素質・能力がすぐれたものが、自力で行い、精神を集中し、仏教の真理を心に思い描いて、迷妄をさって、真理を体得することができる修行である。」  ☆Comment唯円は真言密教を主に年頭において批判しているとおもわれます。その真言密教の経典である『理趣経』の結論にあたる部分が「百字の偈」です。少しずつ紹介していきます。「菩薩は勝れし知慧を持ち、なべて生死の尽きるまで恒に 衆生の利をはかり、たえてねはんに趣かず。」(金岡秀友先生の訳によります)菩薩は大いなるすぐれた知恵をもっております。すべてのものの生死が終わるまで、常にまよう衆生の利益をかんがえて、けっして極楽浄土にいこうとはしません。これは阿弥陀様がすべての衆生が救われるまでは、自分は浄土のいかないという、浄土教の教えに近いものがあります。ここからあとで違いが生まれます。(この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ) (http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ) (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月7日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その12 ☆水面下のことを想像する力  「迎え火が烟り立ちいくつもの灯篭が流れていつたきつと船の下で溺れた子が抱いて還るのだ」(エリアンの手記と詩「6 エリアンの詩(1)」より) ☆辞書から迎え火=盂蘭盆(うらぼん)の入りの日の宵、先祖の霊を迎えるために門口で焚(た)く火。江戸時代から行われた。灯篭流し=精霊(しようりよう)流しの一。火をいれた灯籠を川や海に流す行事。盆の終わりの日に行う。家の祖先を送り、また水死者・無縁仏の供養とする。流灯会。 ☆comment東京の下町の河で灯篭流しが行われています。その灯篭を「船の下で溺れた子が抱いて還る」と想像しています。ここに詩的想像をみます。水面にあるものから水面下のことを想像しているのです。このように想像力が働くと詩の表現力はアップします。   (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月2日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ケアという臨床 22--看護という磁界(3)--漱石にみる病いと看護の省察にふれてーー  ★看護が医療制度に組み込まれた情況   夏目漱石は病気をするために生まれてきたといわれるくらい病気がちでした。明治43年6月に『門』を脱稿後、長与胃腸病院に胃潰瘍治療で入院しました。 夏目漱石は明治43年8月6日に伊豆の修善寺温泉のきくやという旅館に泊まりました。当時は東京から修善寺まで6時間もかかりました。最後は人力車で修善寺の温泉旅館にまできました。 8月17日に胃痙攣、嘔吐が続き、吐血して入院しました。 8月24日に吐血。三人の医師の奮闘で危機を脱出。8月25日に看護婦2名到着。 9月8日には自身で日記を記しました。 9月25日に食事がとれるようになりました。 10月11日に帰京。長与胃腸病院に入院。退院は明治44年2月28日でした。夏目漱石は自身のからだを通して、明治そのものを引き受けていったとおもいます。「思い出すことなど」の18で漱石は自身のありかを骨で確かめています。「思い出すことなど」の23では治療することは食事を与えることだと書いています。献立が医療なのです。治療として食事が前面に押し出されています。看護という磁場で、好意のある医療にふれています。 看護が医療制度に組み込まれたのは、最近のことです。介護保険の成立から看護は医療制度にはいったのです。 それ以前の段階は未分化でした。今は医療看護になりました。 もともとは慈愛看護で、明治期のカトリックの修道女から始まりました。日本の明治期の看護制度はあいまいでした。何よりも看護婦が患者の側にいることが特徴でした。 それが平成になってから、病院から付添婦を排除しました。 夏目漱石の時代は患者が看護婦と直接契約していました。 寺田寅彦は看護婦に感謝して死にました。夏目漱石もそうでした。 医師は診断のみをしておりました。看護婦のほかに付添婦がいました。 ナイチンゲールの『看護覚え書き』では、看護の水準にばらつきがあってはならないと書いてあります。しかし、今の医療ではバラバラです。気持ちのない医療従事者のレベルは低いです。ちょっとした気持ちの働かせ方があるかないかで、医療現場では決定的な違いがあります。検温の仕方ひとつでも違います。 そして、気持ちのある人は脱落していきます。病院から辞めていくのです。今の病院では人間的なつながりが少ないのです。 以前は病院付添婦が患者につきっきりで、家族は寝ていました。付添婦は職業意識がしっかりしていました。ところが戦後、医者が自分の都合のいい看護婦を作るために准看護婦を作りました。完全看護の名のもとに付添婦を病院から排除しました。本音は医師が患者のことについて看護婦から言われたくないことにあります。 現在、特定ナース制度で医者の領域のことを看護師ができるようになりつつあります。看護師が医療技術者になっていく状況です。 介護士もそうですが、その技術と行為がお金に換算されていく仕組みです。 医療現場が退廃していきます。その中で庇護されるべき人たちが徹底してひどいことになっています。ほったらかしになっています。 医療が面倒みないなら、面倒を診ましょうという人たちが現れています。地域のうごきにあわせて、医者だったら医師の肩書きを外してやっていく人たちがいます。この人たちは認可されていないところで看護をやっていきます。人にとっては無認可の方がいいときがあるのです。現在は「介抱する」という言葉が失われました。介抱(病人やけが人の世話をすること。看護。)とはいい言葉だと想うのです。   (この項終わり)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月23日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その21 「しずかな風の色彩飾画の影がうすれかかつた不遇な瞳をあげて視ている夕べのひとよ!」(エリアンの手記と詩「8 エリアンの詩(3)」より)  ☆comment風の色を視たものはいるだろうか。激しい風ではなくてしずかな風だ。その彩りは薄墨がかかっているのだろうか。飾ってある絵の影が薄れかかっています。風の色彩と飾っている絵の影が連合して薄れかかった像を作りだしています。像的な喩である。形式は暗喩(隠喩)です。 そんな像が不遇(才能・能力がありながら運が悪くて世に認められないさま)な瞳をあげて視ているエリアンの分身がいます。時刻は夕べです。   (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月27日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その20 「たしかにゆく道があった!おまえの悲しい歩みが樹々の裏道をこしらえてゆくだろうそこには不平ばかりがあったのだと......」(エリアンの手記と詩「8 エリアンの詩(3)」より)  ☆comment 死の誘惑から逃れて、「確かにゆく道」をエリアンの分身であるおまえは見出したのです。分身の悲しい歩みが木々の茂っている中の表の道ではなく、裏の細いけもの道のようなところをふみかためていくだろうというのです。その裏道には不平ばかりがあったのだと、おまえは風のたよりをよこすのです。 悲しい歩みが不平ばかりある裏道をこしらえるのです。悲しい歩みが肩を落としたさびしげな姿をイメージさせます。裏道が人通りの少ないさびしいけもの道をイメージさせます。そのイメージの連合による像的喩を形成しているのではないでしょうか。形式は暗喩です。(この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月20日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ●直訳「歎異抄」 第101回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★この世の極楽とは何か ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその9「『和讃』にいわく『金剛堅固(こんごうけんご)の信心の さだまるときをまちがえてぞ 弥陀の心光摂護(しんこうしょうご)して ながく生死をへだてける』(善導讃(ぜんどうさん))とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取(せっしゅ)してすてたまわざれば、六道(ろくどう)に輪回(りんね)すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。」  ☆語句の意味(辞書から)和讃=日本語(韻文)の歌詞による仏徳賛美の歌。梵讃(ぼんさん)・漢讃(かんさん)に準じて、平安時代以降盛んに作られた。良源・源信・親鸞・一遍などの作が有名。今様(いまよう)歌の源流でもある。金剛­=きわめて堅固でこわれないもののたとえ。金剛石(ダイヤモンド)。堅固(けんご)=意志が強く、簡単に相手に従ったり動かされたりしない・こと(さま)心=深く考え、味わって初めて分かる、物の本質。神髄。光­=人の心を明るくはればれとさせることやもの。光明。希望。人に尊敬の念を起こさせるもの。他を威圧するような勢い。威光 ◆思考する詩を求めて ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」を読む  詩の引用=ヴァレリー『若きパルク/魅惑』改訂普及版 中井久夫訳(みすず書房2003年発行)より  ★「海辺の墓地」の書き出し わが魂よ、不死を求めず、きみの限界を汲み尽くせ。--ピンダロス「ピュティア祝勝歌2」-- ☆辞書・事典からポール・ヴァレリー=アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(1871年10月30日 - 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家。ピンダロス( 紀元前522年/紀元前518年 - 紀元前442年/紀元前438年)は、古代ギリシアの詩人。オリンピックの祝勝歌が多い事で知られる。古代ギリシャの合唱抒情詩人。オリュンピア、ピュティアなど四大祭典競技の壮大晦渋(かいじゆう)な競技祝勝歌が、古典期以前の抒情詩人の作品としては例外的にほぼ完全な形で現存。他は断片のみ。晦渋=言葉や文章がむずかしくて、意味や論旨がわかりにくい・こと(さま)。難解。  ☆解釈「私(ピンダロス)は、永遠の命を求めてはいない。きみ(競技者)はきみ自身の競技者としての能力の限界を残らず掬い取れ」 ☆comment これからフランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩「海浜の墓地」を読みこんでいきます。その狙いは「思考する詩」の作り方を学ぶことにあります。ぼくは次のぼくの詩の進むべき道を「思考する詩」に求めたいと考えているからです。 (2012年1月25日 メルマガ・ブログ掲載) (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月25日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その18 「夕べのひとよ!おまえは言いしれない疲れを浴みてそれから咽喉を鳴らすように空の微塵を仰いでいた!」(エリアンの手記と詩「8 エリアンの詩(3)」より) ☆辞書から微塵=細かいちり。仏教では、 物質の最小単位の極微(ごくみ)が六方から集まったきわめて小さい単位。 ☆comment「夕べのひと」も自己の分身です。すなわち「おまえ」のことです。どこが変化しているかというと、魂の惨劇(自死への誘い)が終わりかけているということではないでしょうか。 自分の分身はひどい疲れを感じながら空中の細かいちりを眺めています。それは孤独な姿です。咽喉をならすようにという直喩は、少し顔を上に向けている姿勢のイメージを思わせます。しかし、ここでは咽喉を鳴らすくらいささいなことで自己の身体を感じていることを指しているのではないでしょうか。咽喉を鳴らすくらいにささやかな行為で身体を感じて、夕暮れの空中のあるかないかの塵を見つめている孤独な姿です。咽喉を鳴らすくらいのささやかな行為のようにという意味にアクセントをおいて、空中の塵を仰ぎみるという行為に連合していく意味的喩であると想います。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ) (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月14日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ●直訳「歎異抄」 第92回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★罪を消さなくても極楽往生できる •☆ 原文第十四条 --罪を滅すとは何かーその9 「また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期(ご)のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。」 ☆語句の意味(辞書から) したがい=大きな力に任せて、動かされるままに動く。臨終正念=臨終の際、心を乱すことなく、阿弥陀仏にひたすら念じて極楽往生を願うこと。自力=自分に備わっている悟りを開く能力。また、自分の修行によって悟りを開こうとすること。他力=自己の力で悟るのではなく、仏や菩薩の力を借りること。仏・菩薩の加護のこと。多くは浄土教で、衆生(しゆじよう)を極楽へ救済する阿弥陀仏の本願の力のこと。 ☆直訳歎異抄 第十四条 --罪を滅すとは何かーその9「また、臨終のときに念仏を唱えるのも、悟りを開くであろう時が近づくにつれて、いよいよ阿弥陀仏の請願におすがりして、その恩に報いるためであります。ところが罪を消そうと想うのは自分の修行によって悟りを開こうとする信仰であって、それが臨終の際、心を乱すことなく、阿弥陀仏にひたすら念じて極楽往生を願うことの本当の考えです。それは衆生を救済する弥陀の本願の力にたよる信心ではないのです。」 ☆Comment臨終正念が自力であるなら、浄土宗は自力です。他力の信心を掲げる浄土真宗とのもっとも大きな違いはそこにあると言えそうです。罪があっても弥陀の誓願によって極楽往生できるのだから、罪を消そうとしない。ただ、ひたすら阿弥陀仏にお願いするだけでいいというのです。  さて、今日も理趣経を読みたいとおもいます。真言密教の経典である『理趣経』の最初の部分である大楽(たいらく)の法門において、「十七清浄句」といわれる教えが説かれているそうです。今日はその12と13です。12 光明清淨句是菩薩位 - 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。13 身樂清淨句是菩薩位 - 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である  満ち足りて心が輝くときはそれほどありません。テレビでスポーツ選手が勝ってうれしそうな表情をするときに見ることができます。そのような表情を見たくて観戦しているのかもしれません。そんな表情は菩薩の境地だと言うのです。 身体の楽は、遊んでいる子どもを想像するばいいでしょう。そのとき、子どもたちは菩薩の境地にいるのです。 梁塵秘抄の有名な歌を想いだします。「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子供の声を聴いていると、感動のために私の身体さえも動いてしまう。  理趣経は面白い経典ですね。   (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月1日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その14  ☆都会の近くのさびしい海辺の風景  「ひそやかな海べよ滑石や土管の破片や檜皮造りの仮小屋の跡におまえが独り佇っていると港は幼い日のようにはるかな異郷をおもわせる!」(エリアンの手記と詩「7 エリアンの詩(2)」より) ☆辞書から滑石(かっせき)=マグネシウムのケイ酸塩を主成分とし、最も柔らかい鉱物の一。白色・淡緑色・灰色を呈し、絹糸状の光沢がある。やわらかい石なので、加工がしやすいのが特ちょうです。弥生時代には紡錘車[ぼうすいしゃ]の材料として使われました。中世には、保温性がよいという利点を生かして、滑石でなべが作られたりもします佇む(たたずむ)=しばらくの間ある場所に立ったまま動かないでいる異郷=故郷を遠く離れたよその土地。他郷。また、外国。異国。 ☆commentだれもいない静かな海辺の風景です。そこには石や土管の破片があります。小さな小屋の跡にエリアンは佇んでいます。すると少し離れたところにある港は幼い頃に感じたように故郷をはなれた異国(異郷)のように感じられてくるのです。幼い日の自分の感覚と現在の感覚をだぶらせています。幼いころに感じたようにという意味にアクセントをおいた意味的喩になっています。形式は直喩です。さびしい都会の近くの海辺の風景が立ち上がってきます。   (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月6日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その22  「河水はすでに暗かったもの影から人があらわれて何ごともおこらなかった不思議なこころがあてもない予望を探していた 芽ぐみかけた並木や茫んやり垂れた暖簾や手品の種のような犬たちの喧嘩やひどく小さくなつた物象がおまえの前を通りすぎた」(エリアンの手記と詩「8 エリアンの詩(3)」より) ☆辞書より予望=予はあらかじめ。望はのぞむ。あらかじめ望むこと。予断はなりゆき・結果を前もって判断すること。予測。物象=物のかたち。ありさま。また、自然の風景手品=指先や器具を巧みに操り、人の注意をそらせておいて、不思議なことをして見せる芸。仕掛けを主体とする大掛かりなものを特に奇術と称する場合がある。  ☆comment夕暮れの運河の水はすでに暗くなっていました。突然、物影から人が現れました。ドキンと心臓が鳴りましたが、何事も起こりませんでした。不思議なこころ、不遇なのに、何もあてもないのに、未来に望みをさがしていました。春をまって芽吹きだした並木や、人通りも少ない夕暮れの街路に形がはっきりしないまま垂れている暖簾。 手品の種のような犬の喧嘩とは、手品のように人の注意をそらせるためにわざわざ喧嘩しているように見えるという意味的な喩です。 大げさに吠えて思わず注意がそちらにいってしまうかのように派手に喧嘩しているのが、手品の仕掛けのように見えるというのです。 そして自然の風景や街のありさまが、なぜかひどく小さくなって、エリアンの分身であるおまえの前を通りすぎていくのです。    (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ) (http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ) (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月31日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  いのちを考えるセミナー 2012年1月18日講師 米沢 慧さん  ケアという臨床 22--看護という磁界(1)--漱石にみる病いと看護の省察にふれてーー  ★昔、病院に付添婦がいました  米沢慧さんの講演のなかで、戦前は看護婦が患者の側にいるという話をしていました。また、戦後まで続いていた「付き添い」が医療体制から排除されたとも語っていました。 それを聞いてぼく自身が、子どものころ、付き添いの世話になったことを想いだしました。 小学校5年生のときに盲腸炎にかかって入院しました。はじめ風邪かとおもいましたが、足立区千住の御竹橋病院にかかったら白血球が多いので盲腸炎の疑いがあると言われました。そこで母は町屋にあった風間病院にぼくを連れていき、診察をうけました。子供だから一日おこうか、と今は亡き風間先生が言いました。ぼくは切ってください、と先生に言いました。先生はすぐに反応して、では切りましょうと言いました。 手術は夕刻に行われました。手術自体はそれほど時間はかかりませんでしたが、点滴に時間がかかりました。血管が細いので、一番細い針を使ったからです。2時間も手術室におかれたままでした。父もかけつけてくれました。 婦長さんに抱きかかえられて、二階の病室に運ばれました。その夜は母が泊りました。風間病院では母も父も盲腸炎で手術を受けていました。ぼくが子どもだからというので、母が二日めから付き添いの婦人をたのみました。 翌朝、あれだけ熱が高かったのに、嘘のように熱はひきました。 付き添いの人がやってきました。ぼくの病室に付き添いの女性も泊ります。付き添いの女性はぼくのベッドに自分のベッドをくっつけて寝てくれました。母がきて、こうしてやればよかったのね、と感心していました。 病院の付添婦について現在は、完全看護の名のもとに制度がなくなっています。しかし、ぼくが手術を受けた昭和35年(1960年)当時は確かに存在していました。その歴史がわかる資料をインターネットで探しました。「1950(昭和25)年、家政婦にとって大きな変化が起きた。厚生省は「完全看護」制度を打ち出し、"付添看護"が問題になったのである。「完全看護」とは、いくつかの承認基準を満たした病院には、完全看護料として一定の金額を保険診療で認めるというものである。それには「患者に個人付き添いがいないこと」という要件があり、これまで付添婦として働いていた派出看護婦や家政婦、患者の家族が行っていた入院患者の世話一切を、病院の看護婦が引き受けることとなり、従来に増して多くの看護婦が必要になった(篠塚栄子ら, 1990, 275)。官公立病院は、指定類別規則に従って申請し完全看護という承認を受けたが、当時は看護婦数が少なく、かつ看護婦養成制度の改革のために、さらに看護婦数が激減した。付添婦として働いていた看護婦の引き抜き騒ぎや、指定を受けた病院は一時的であれ入院患者に対する付添は不可ということになり、付添看護では、雇用不安の気風がおこった(高木寿之, 1978, 203)。 そこで「家政婦」の有料紹介事業が認可された同年、厚生省は付添看護料を設定する際、付添婦を看護補助者として料金を設定した(高木寿之, 1978, 204)。つまり、家政婦は看護補助者(付添婦)として再び業務ができるようになったのである。看護を担当する者は原則として看護婦だが、現実には看護婦が不足しているため、看護補助者が主治医または看護婦の指揮を受けて看護の補助を行うときは、看護料の支給が認められるようになったのである(厚生省保険局医療課, 1978, 215)。しかしながら、1994(平成6)年の健康保険法改正により、この付添看護は廃止されるに至った。(「家事労働の家族外部化の変遷」──家政婦を中心に分析──野澤貴代子さんのレポートより引用しました)  ぼくの病状は付添婦を必要とするほど、重くなかったのですが、まだ幼いということもあって母が頼んでくれました。ぼくは手術の翌日からは熱も引いて元気でした。病院には盲腸炎でも手当がおくれて重症の人がいました。付添婦さんは、その人たちの面倒を無料で看てやっていました。そして夜寝るときはぼくの隣にベッドを移して隣合わせで寝てくれました。 そのようなことがあったのを、米沢慧さんの講演を聞いて想いだしました。 子どもの頃の記憶は、ぼくには創作の糧となる貴重な宝物なのです。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月21日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)  証果(しょうか)=修行の結果として得た悟り六根清浄(ろっこんしょうじょう)=人間に具わった六根を清らかにすること。山参りの修行者や登山者などの唱える言葉。六根の執着を断ち、清浄な精神を所有し霊妙な術を修得すること。六根とは感覚や意識をつかさどる六つの器官とその能力。すなわち眼根(げんこん)・耳根(にこん)・鼻根・舌根・身根・意根の総称。六つの根。 ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その13  ☆孤独な魂が住む清澄な世界  「ひそやかな海よ泡立つ時の水脈のなかに波が花のようにひらいている空の涯てには冷たい氷片が流れぼんやり幻晶が浮んでいる」(エリアンの手記と詩「7 エリアンの詩(2)」より) ☆辞書から水脈=河川や海で、船が航行する水路。ふなじ。みお(船の通ったあとに残る泡や水の筋。航跡。)結晶=原子あるいは原子団・イオンが空間的に規則正しく配列した固体 ☆commentぼくのメルマガ・ブログの読者のひとりとお話しする機会がありました。吉本隆明さんの詩篇の解説は難しいですと言われてしまいました。申し訳ないことです。詩の表現のうねりの高まったところを選んで引用していますので、難しくなってしまいます。そこには比喩が使われている場合が多いので、その解説も難しく感じられるかもしれません。なるべくわかりやすく、解説していきます。しかし、今回もなかなか手強い詩行です。穏やかな海に船が通ったあとの航跡が泡立っています。それが「船の航跡」なら散文ですが、「時の航跡」であるから詩になるのです。ではこれをどう理解したらいいのでしょう。これを直喩に直しますと、「時のような航跡」となります。航跡を観ていると時間の流れを感じるという意味になります。吉本さんは比喩を意味的喩と像的喩(感覚喩)に分けて考えています。この「時の航跡」は航跡が時間の流れを思わせるという意味にアクセントをおいた意味的喩になるとおもいます。形式として暗喩(隠喩)になります。続いて「波が花のようにひらいている」というのは泡立つ波と白い花のイメージを結びつけた典型的な像的喩になります。形式としては直喩になります。比喩が連続して重ねあわされることで詩のうねりが高まっていきます。「空の涯てには冷たい氷片が流れ/冷たい幻晶が浮んでいる」というのは作者の想像が創りだした世界です。そのような世界があるかのようにイメージが浮んできます。それは孤独な魂が住む清澄な世界です。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月4日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)   摂護(しょうご)=おさめる、 かねる、 とる。まもる善導=(613-681) 中国、唐初の僧で、浄土教の大成者。道綽(どうしやく)の弟子。著書に「観無量寿経疏」などがあり、日本の法然・親鸞に影響を与えた。讃(さん))=仏・菩薩の功徳をほめたたえた言葉。梵讃(ぼんさん)・和讃の類。摂取(せっしゅ)=仏、特に阿弥陀仏が慈悲の力によって衆生(しゆじよう)を受け入れて救うこと。六道(ろくどう)=〔仏〕 すべての衆生(しゆじよう)が生死を繰り返す六つの世界。迷いのない浄土に対して、まだ迷いのある世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。前の三つを三悪道、あとの三つを三善道という輪回(りんね)=生あるものが死後、迷いの世界である三界・六道を次の世に向けて生と死とを繰り返すこと。インド思想に広くみられる考えで、仏教の基本的な概念。すべからず=動詞について「してはいけない」「するべきではない」などの意味を表す文語的表現しかれば=そうであるから。それだから。ところで。さて。生死=生老病死の四苦における始めと終わり。前世の業の結果として生死を繰り返す迷いの世界。輪廻(りんね)。をば=取り立てて強調するのに用いるへだて=間に置いて仕切ること  ☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその8「親鸞聖人の仏徳賛美の歌である『和讃』にはこう書いてあります。『金剛石のように意志が固くてゆるがない信心が定まります。そのとき、阿弥陀仏の本質の光明を摂取したならば、生老病死を繰り返す迷いの世界から離れることができます。』とおっしゃっているので、信心が一度しっかりと定まって放棄しなければ、衆生が生死を繰り返す迷いの世界に生まれ変わっていくことはなくなります。それだから六道の迷いの世界に輪廻することとは隔てられるでしょう」 ☆Comment ポイントは信心決定であって、修行ではないというのです。この信心決定は、この後の文にもありますが、悟りではないのです。唯円の立場はこの世で悟ることはないというものです。この世では信心決定をしていれば、阿弥陀様が死後、極楽往生させてくださる。それから悟りの世界にはいればいいというものです。 ところでぼくは信心決定をしていません。ですから極楽往生もできません。それでいいのです。 この世は四苦八苦の連続ですが、その中でも極楽の気分が味わえればいいとおもっています。この世の極楽とは何でしょうか。ぼくは忘我の状態ではないかとおもいます。子どもが無心に遊んでいる世界もそのひとつです。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ) (http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ) (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月24日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) このメルマガを解除したい方は次のアドレスからお入りください。http://www.mag2.com/m/0000163957.html●直訳「歎異抄」 第94回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★その時間だけ菩薩の境地になる ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその2「この条もってのほかのことにそうろう。即身成仏(そくしんじょうぶつ)は真言秘教(しんごんひきょう)の本意、三密行業(さんみつぎょうぎょう」の証果(しょうか)なり。六根清浄(ろっこんしょうじょう)はまた法華一乗(ほっけいちじょう)の所説、四安楽(しあんらく)の行(ぎょう)の感徳(かんとく)なり。」 ☆語句の意味(本書から) 三密行業の証果=衆生の身(しん)口(く)意(い)(三業(さんごう)。身体的行為、発語行為、意識作用のこと)と大日如来の身口意(三密)が、真言密教の修行により一体化して、さとりを得ること。)四安楽の行=『法華経』に説かれる。1身安楽行、2口安楽行、3意安楽行、4請願安楽行のこと。すなわち、衆生の身口意の三乗についてのあやまちを離れることと、衆生を教化(きょうけ)するための誓いをたてること。六根清浄は、この四行によって得ることができる。 ☆語句の意味(辞書から) 即身成仏(そくしんじょうぶつ)=現在の身体のままで仏となること。天台宗など諸宗派で説かれるが、特に真言宗では根本的教義とされ、大日如来の真実の姿と修行者が一体となることで即身成仏が実現されるとする真言秘教(しんごんひきょう)=一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くのに対し、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。三密行業(さんみつぎょうぎょう)=三密の修行をつむこと。密教で、仏の身・口(く)(言葉)・意(心)の三つの行為。人間の理解を超えているので密という。また、人間の三業(さんごう)をいう。そもそもは、人間の三業は仏と同一であるとの考えによる。また、身に印を結び、口に真言を唱え、意に本尊を観ずる場合、人間の三業は仏の三密そのものである。 ●直訳「歎異抄」 第96回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★死後に悟りを開く ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその4 「来生(らいしょう)の開覚(かいかく)は他力浄土の宗旨、信心決定(けつじょう)の道(どう)なるがゆえなり。」 ☆語句の意味(辞書から)来生(らいしょう)=衆生(しゅじよう)の死後生まれかわる生。未来の生。後生。開覚(かいかく)=悟りをひらく。仏の智慧。菩提(ぼだい)。他力浄土=弥陀の本願の力に頼って成仏すること宗旨=ある宗教・宗派の教義の中心となる趣旨信心決定(けつじょう)=阿弥陀による救済の信仰が心に確立すること。道(どう)=〕 仏教徒として修行すべきおこない。八正道のこと。また、仏の教え。仏道。  ☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその4「衆生が死後生まれかわり、悟りを開くのは、阿弥陀仏の本願の力にたよって往生するというのが、浄土真宗の教義の中心であります。これが阿弥陀仏による救済の信仰が心に確立する仏道修行なのです。」 ☆Comment  唯円は真言密教が即身成仏なのに対して、死後に極楽往生して、悟りを開くのが真宗の根本義だと言っています。その真言密教の経典である『理趣経』の結論にあたる部分が「百字の偈」です。少しずつ紹介していきます。「もののすがた[=有]も、そのもの[=法]も、一切のものは皆清浄(きよ)し。欲が世間をととのえて、よく浄らかになすゆえに、有頂天(すぐれしものも) もまた悪も、みなことごとくうちなびく。」(翻訳文:金岡秀友先生) 現にあるものはみな清いというのです。欲望がよく社会をととのえて、清らかにするからです。優れた者も悪人もみなすべて、菩薩の意にしたがっていきます。 歎異抄は「悪人正機」です。理趣経は「欲望肯定」の仏教典です。仏典は面白いです。 (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月9日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その16 ☆自己の分身像から心を守る  「小さな炭火のように燃えているわたしの心よ脅しかけるおまえの影からたつたひとつの温かさを守ろうとして」  ☆comment 木炭がいろりか火鉢で燃えているイメージが浮びます。しかしここは、わたしの心は小さな炭火に火がついているように勢いはなく、規模も小さく燃えている、という意味にアクセントをおいた意味的喩になっていると想います。形式は直喩です。 自己の分身像から脅かされていることから、わたしの心の中のぬくもりを守ろうとしているエリアンです。 (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月10日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ◆直訳「歎異抄」 第102回  殿岡秀秋筆  ●直訳「歎異抄」 第102回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★今を生き抜くために  ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその10 「かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。『浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土(ど)にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ』とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。  ☆辞書からまぎらかす=まぎれるようにする。まぎらす。哀れ=気の毒な ☆☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその10「このように知ることを悟りとまぜてはいけません。信心の決定は悟りではありません。それを混乱してしまうのは、気の毒なことです。『浄土真宗では、今生きているときに阿弥陀仏の本願を信じて、極楽往生したときのあの世で、悟りをひらくことになる』と今は亡き親鸞聖人は仰せになっておられます。」  ☆Comment 死後にさとりをひらくというのが、唯円がこの十五条で言いたいことです。では、生きている間はどうしたらいいですか、と信者ならずとも聞きたくなります。 信者ではないものにとっては、死後の極楽浄土は保証されていないので、現世をどう生きていくかがもっとも大きな課題になります。 ぼくにとっては今生こそが大問題なのです。聖道門にはいる気もありません。生きてさとる気もありません。生きて覚者になることもありません。ただ、生き抜いていくためにどうしたらいいのでしょうか。どうあがいても不安から抜けきることはできません。なぜならさとることがないからです。 でも、今生を不安はあってもどうにか生きていくためにはどうしたらいいのでしょうか。そういう疑問はつねにあります。 そこでは禅宗などの瞑想法は、悟りのためではなく、現世を生きるための気持ちの持ち方として有効なのではないか、とぼくは想うのです。 ぼくは毎朝瞑想しています。これをより効果的に行うにはどうしたらいいか、考えています。 (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月28日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ● フロイト『ヒステリー研究』と詩の理論 その100 テキストは、ヨーゼフ・ブロイアーとジークムント・フロイト共著『ヒステリー研究下』(ちくま学芸文庫 2004年2月10日発行)です。引用もとくに断りのないかぎり本書です。  本稿は99回(2011年8月28日)まで連載しました。半年ぶりに再開します。これからは週に一度くらいのペースでフロイトの『ヒステリー研究下』を読んでいければと考えています。今回は前に引用したところから始めます。論旨を通りやすくするためです。 •☆ 第三章 理論的考察(ブロイアー) ★情動に対する異常反射について 「侮辱を受けたという怒りの情動が想い出を通じて喚び覚まされるとき、その侮辱に対して報復がなされたか、あるいは、黙って堪え忍んだかによって、そのさいの情動の強さの度合は異なったものとなる」(40頁)。☆comment 侮辱を受けたという怒りの情動が想起されるときに、その侮辱に報復していたか、または黙って耐えたかで、記憶が蘇えるときの情動の強さの度合は変わってくるというのです。 「もともとの誘因となる出来事が起きたときに、実際に心的反射がなされていたなら、それを想起することによって生じる興奮量は、心的反射が起きなかったときより少ない。心的反射が起きていなければ、そのときのことを想い起こすたびに、そのときには抑え込んでいた罵りの言葉が口から出かかる。そうした言葉は、そのときの刺激に対する心的反応となるはずのものだったのである。」(40-41頁) ☆comment 心的反射が起きていないと,想いこすたびにそのときの刺激に反応するはずの罵りの言葉がでてきます。 「もともとの情動が正常な反射ではなく、『異常な反射』へと放出された場合、そののち、そのときのことを想い起こすことによって、この異常な反射もまたふたたび生じることになる。すなわち、情動を備えた表象から発する興奮が身体現象へと「転換」(フロイト)されるのである。」(41頁) ☆comment これがヒステリー現象なのです。もともとの情動(屈辱体験など)に対する反射が罵りの言葉など、その情動に対する正常な反射でなく、異常な身体行動に放出されたときには転換が起きているというのです。その屈辱体験などをおもいおこすことで、情動がよみがえるというより、興奮が身体現象となって出てしまうのです。 わたしたちは多かれ少なかれ、屈辱体験をもっています。それにどう対処していったらいいのでしょうか。フロイトの著書を読みながら考えていきたいとおもいます。   (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月26日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ●直訳「歎異抄」 第100回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行) ★瀬戸内寂聴さんーー生きるとは  ☆原文第十五条 --悟りを開くのはいつかーその8「この身をもってさとりをひらくとそうろうなるひとは、釈尊のごとく、種種の応化(おうげ)の身(しん)をも現じ、三十二相・八十随形好(ずいぎょうこう)をも具足して、説法(せっぽう)利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本(ほん)とはもうしそうらえ。」 ☆語句の意味(辞書から)そうろう­­=。(で)あります。(で)ございます。種種=いろいろ。さまざま。応化(おうげ=)=仏や菩薩が衆生を救うために、時機に応じた姿となって現れること三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅこう)=仏の身体に備わっている特徴。見てすぐに分かる三十二相と、微細な特徴である八十種好を併せたもの。「相」と「好」をとって相好ともいう。相好はまた転じて、顔かたち・表情のこと。具足=物事が十分にそなわっていること。過不足なくそろっていること。説法(せっぽう)=仏の教えを説いて聞かせること。利益=にや=(文末に用いて)疑問の意を表す。利益(りやく)=〔「やく」は呉音〕人々を救済しようとする仏神の慈悲や、人々の善行・祈念が原因となって生ずる、宗教的あるいは世俗的なさまざまの恩恵や幸福。今生=この世。この世に生きている間。本(ほん)=基本。根本。  ☆直訳歎異抄 第十五条 --悟りを開くのはいつかーその8「生きているこの身体によって悟りを開こうとなさる人は、お釈迦様のように様々に衆生を救うために、時機に応じた姿となってこの世に現れたり、仏の身体に備わっている特徴である三十二相と、八十種好をそなえて、教えを説いて聞かせ、人々を救済するものではないでしょうか。そこまでいってこそ、この世に生きながら悟りを開く根本と言えるのではないでしょうか。」  ☆Comment  瀬戸内寂聴さんが朝日新聞2012年1月13日夕刊「人生の贈りもの」のコーナーでインタビューに応えています。その終わりの部分を引用します。「『和顔施(わがんせ)』という仏教のことばがあります。『幸福は笑顔にやってくる』という意味です。幼い頃、私は母に言われました。『お前は器量良しじゃないから、人に対するときは、精いっぱいいい笑顔でいなさいね』。器量は母の責任だ、内心思いながら、母は正しいと得心。 新年、つらいことは涙で吐き出したら希望をもって楽しいことを考えてみませんか。そんな人にはきっと奇跡が訪れます。生きるとは自分の存在が誰かの役にたち、他者を幸福にすることです。」 つらいことは十年以上もかけてぼくは詩に書いてきました。 希望をもって楽しいことを考えてみると、奇跡が訪れるそうです。ぼくも希望を持つことにします。文学の原稿を書いて、売れるという希望をもちます。奇跡が訪れることを祈ります。 自分の存在が誰かの役にたち、他者を幸福にすることができるように生きていきたいと想います。 (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月18日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その19 「暗がりには寂かな囁きがもれ大切そうな影があつた風がもう建築たちの窓にかかずらつて寂しいふるえを用意した濠割の鋼いろの水におまえは持てなかったか遠い追憶に過ぎられたおまえの影を!」  ☆comment 掘割の暗がりには囁き合う男女の互いに大切そうにしている影がありました。風が建物の窓に当たって、もの悲しく震える音を立てていました。 風が窓に当たるというところを、かかずらってと表現しています。擬人法です。風が主体であるかのように窓にかかずらって寂しいふるえを用意したというのです。 掘割の鋼色のように鈍く光る水は、鋼の色と水の色のイメージによる連合にアクセントをおいた像的喩(感覚喩)です。 エリアンの分身であるおまえは、掘割の水に、遠いの記憶の日の影を持てなかったのか、とエリアンは問いかけています。 遠い追憶の日にはおまえとエリアンは分かれていなかったので、おまえの影はないのです。 複雑な思考を感覚的な表現に置き換えています。 ぼくがこれから目指すのは「思考する詩」です。そのために吉本隆明さんの詩を読んでいます。   (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月17日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html) ★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)その15  ☆自己の分身像を幻視する  「冷たい風よ!見なれない響きの訪問者よ!戸の隙間からわたしは観たおまえの孤独な貌かたちを! おまえには耳がなかった蒼ざめて鋭くなった眼だけがあった」(エリアンの手記と詩「7 エリアンの詩(2)」より) ☆辞書から分身=一つの身体や、一つのものが、二つ以上に分かれること。また、その分かれ出たもの。ドッペルゲンガー=自分の姿を第三者が違うところで見る、または自分で違う自分を見る現象のことである。自ら自分の「ドッペルゲンガー」現象を体験した場合には、「その者の寿命が尽きる寸前の証」という民間伝承もある。 ☆comment見なれない響きの訪問者は風の喩なっています。戸を叩く風の音のように感じられるという意味にアクセントをおいた暗喩になっています。 戸の隙間から見た「おまえの孤独な貌かたち」は「わたしの分身像」です。文学の世界によく現われるドッペルゲンガ-のことです。「おまえには耳がなかった 蒼ざめて鋭くなった眼だけがあった」というのは死を予感させる不吉な姿です。エリアンが自死へと魅入られるなかで見た自己像の幻視です。  (この項つづく)  (http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)  (メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年1月8日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)